#20

ルイの意識に不快感が広がる。


弾力の少ない肉をナイフで刺したような感覚を覚え、自分が人間の鼓膜を突き破ったことが感じられた。


気分の悪さにうなされているルイのことなど気にせずに、クロエは耳を手で押さえながら叫んでいる男へと向かっていった。


血の付いたボールペンを放り捨て、敵が落としたナイフを手に取り、苦痛のあまり転がって男の顔を引き上げてその左目に突き刺す。


そして、まるで眼球を繰り抜くように刃を抜き、次に右目、鼻、こめかみと次々とナイフで穴を開ける。


《やめて……。やめてよ……》


返り血を浴び、目の前で行われている凄惨な光景に怯えているルイは、クロエに止めるように訴えたが、彼女の動きは止まらない。


ナイフで繰り抜き、絨毯の上に転がった眼球を踏み潰し、ルイに肉を切り裂く感覚を味わわせていく。


《クロエ! やめてぇぇぇ!》


「大丈夫よ。もう終わるわ」


クロエは脳内で叫ぶルイに答えると、ナイフで男の脳天を突き刺した。


インド人の男は完全に沈黙。


ドサッと床に倒れ、顔中には刺された傷から血がダラダラと流れている。


男の死体を見下ろしながらクロエがルイに言う。


「はい、終わり。身体の主導権をアナタに戻すわ」


クロエの言葉の後、ルイは自分の意思で手足が動かせることに気が付いた。


表情も冷たい笑みを浮かべていたクロエのものから、恐怖に染まっているルイのものへと変わっている。


《さあ、あともう一人はアナタがやるんでしょう? 早くしないと先手を取られるわよ》


脳内でクロエが語り掛けてきていたが、ルイに彼女の声は聞こえていなかった。


これを自分が――クロエがやったのかと、人を殺した事実に身を震わせている。


《そんな怖がってどうしたのよ? あぁ、なぜ同じ身体なのにワタシがあんな動きができたかってこと? それわね》


震えて死体を見下ろしているルイに、クロエは説明を始めた。


すべての人間は脳の10%かそれ以下の割合しか使っていないという長く語り継がれている都市伝説――いわゆる脳の10パーセント神話というものがある。


この都市伝説の誤った引用元として、かの有名なアルベルト·アインシュタインを含む多数の異なる人物が示されることがあった。


それらの人物が言いたかったのは、“人間はこの未使用の潜在能力を解放することで知能を高めることができる”ということである。


ルイと一つの脳を共有しているクロエは、次第に彼女の脳の使い方を自分のものへとしていた。


身体の神経へ信号を送り、普段のルイからは考えられない動きを可能にする。


彼女の持つ膨大な知識が、都市伝説といわれていた架空の話を現実にしてみせたのである。


《簡単にいうと川沿いでやってみせたダンスと同じよ。応用というやつね》


「……うッ!」


得意げに脳内で喋るクロエを無視して、ルイはナイフを捨ててバスルームへと走り出した。


口元を血塗れの手で押さえながら、洗面所にあった流しに嘔吐おうとする。


昨夜食べドロドロのた保存食が吐き出され、苦しそうに身を屈めているルイの傍には死んだ男の仲間が立っていた。


日本人の男は仰け反りながらも震えている。


おそらく、ルイの身体を使っていたクロエの戦いを見ていたのだろう。


男は自分ではとても敵わないと思っているようだった。


流しで嘔吐しているルイを見て、自分も殺されると一目散にバスルームへと入り、鍵を閉めた。


《ルイ、もう一人がバスルームに逃げたわ。鍵も閉められちゃったみたい。ちょっと面倒になったわね。れる?》


クロエは流しで身を屈めているルイに、冷静に状況を説明し始め、男を殺せるかと訊ねてきた。


当然ルイに男は殺せない。


彼女の今の状況を見てクロエもそれはわかっていたが、止めてきたのはルイだ。


主導権は彼女にあるため、クロエはルイには逆らえない――いや、逆らわない。


そういう契約だ。


《早く男を始末して、ワタシたちの痕跡を消さないといけないわ》


「わたしは……人を殺した……」


《気にすることじゃないわよ。らなきゃアナタが殺されていたんだから。これは正当なる防衛よ。クリストファー·リーの代表作が、『スター·ウォーズ』じゃなくて『吸血鬼ドラキュラ』と答えるくらい正しいことなの》


「ちょっと待って……。時間を……時間をちょうだい……」


《了解よ。どのくらい待てばいいかしら? あまり時間がないから三十秒くらいにしてほしいけど》


「だから待ってって言ってるでしょ!」


ルイは、突然声を張り上げてクロエを黙らせた。


それから流しにある吐物とぶつと手や顔についた血を洗い流し、洗面台の化粧鏡で自分の顔を見つめる。


罪悪感は不思議となかった。


ルイはそれなりに覚悟はしていたのだろう。


生きた人間の肉を切り、血を浴びるという不快感はまだ身体に残ってはいるものの、鏡に映る自分の表情は嘔吐した影響か妙にスッキリとしている。


「ごめん、クロエ……。いきなり怒鳴っちゃって……」


《気にする必要はないわ。ワタシのほうこそ、アナタに対する配慮が足りなかったと思っている。謝らせて、ごめんなさい》


クロエの気遣いに、鏡に映っていたルイの顔が微笑む。


そして、彼女はゆっくりとバスルームの扉のほうへと、その身体を向けた。

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