#32

――ルイの頭から紙袋が外されたのは、次の日だった。


一体どれくらい時間が立ったのかはわからないが、今彼女の目の前にはまぶしい太陽とよどんだ海が広がっている。


彼女の傍には、国蝶こくちょう·たまき灰寺はいでら·しゅん軽墓かるはか·孝義たかよしら貿易会社アンナ·カレーニナの面々が立っていた。


おそらくは会社か、または国蝶の所有するクルーザーで沖に出たのだろう。


犯罪組織がよくやる――殺した死体を処分するときに出ていく場所だ。


「会長。まずは今回の件に関しては、すべて僕に責任があります。申し訳ありませんでした」


そう言いながら深く頭を下げ、普段のヘラヘラした表情からは考えられない顔をしている灰寺。


一方で軽墓や他の社員たちも、彼に続き一斉に九十度に身体を曲げている。


「お前の処分は後だ。でだ、まずはそこのお前に、一応礼を言っておこう」


国蝶は頭を下げた灰寺に、どうでもよさそうに答えると、軽墓に声をかけた。


軽墓は顔を上げ、満面の笑みを浮かべてから再び深く頭を下げていた。


だが国蝶は彼のことなど見ることなく、その視線はルイへと向けられている。


彼女に見つめられても、ルイには何の反応もなかった。


その目からは、あの彼女が持つ底抜けの明るさが抜け落ちており、髪をバッサリと切ったせいか、まるで別人のように見える。


なぜルイがここまで打ちのめされてしまっていたのか。


その理由は、軽墓に裏切られたことや、ガウリカとラチャナ子供たちを救えなかったこと。


そして、何よりも頼りにしていたクロエが、捕らえられてから何も応えてくれなくなっていたからだった。


もう自分の命など心底どうでもいいといった様子のルイを見て、国蝶は悲しそうな表情を浮かべている。


「灰寺。この女の拘束を解いて自由にしてやれ」


国蝶の言葉に、灰寺以外の部下たちからは動揺が走っていた。


ルイは会社の裏切り者だ。


そんな女をどうして解放するのだと、誰よりも軽墓が驚いていた。


「会長の仰せのままに。おい、早く拘束を解いてやれ」


灰寺が指示を出すと、部下たちは表情を戻して彼の言う通りにした。


ルイの手足を縛っていた縄をほどき、彼女を自由にしてやる。


部下たちがルイから離れると、国蝶が彼女へと近づいていく。


これから何をするつもりなのか――。


誰もがそう思っていたが、今のルイにはそんなことすら考えられず、ただクルーザーの床を見ているだけだった。


「裏切られて辛かったろうね……」


灰寺たち部下が見守る中、国蝶は立ったまま俯いていたルイの身体を抱き締めた。


ルイには反応がなかったが、その姿を見ていた部下たちが驚愕している。


一体会長は何をしているのだと。


「何を慌てている? 会長の前だぞ、お前ら」


そんな軽墓たちに向かって、灰寺が声をかけた。


彼は静かながら凄んだ声を出し、動揺を隠しきれない部下たちを黙らせる。


その冷静な姿からは、まるで灰寺には、国蝶が何をするかがわかっていたように映った。


「私はな。たとえどんな理由があろうと、女を裏切る男は許せないんだ」


ルイを抱き締めていた国蝶が、ここで初めて軽墓のほうを見た。


その目はまるで、自分の子供に噛みついた野良犬でも見るかのような視線だった。


「か、会長……?」


軽墓は思わず上擦うわずった声を出していた。


彼からすれば意味がわからない。


自分は会社にたて突いた女を突き出したのだ。


それなのに、今の国蝶が怒りを向けている相手はルイではなく、功労者である自分だ。


そんな困惑している軽墓に、黒蝶は白いジャケットから出した拳銃の銃口を向ける。


「なんで!? なんでですかッ!? なんでこんな――ッ!?」


軽墓が声を張り上げた瞬間、銃声が海に響き渡った。


悲鳴すらあげることもなく、腹を撃たれた軽墓は海へと落ちる。


灰寺が確認をしに海を見下ろすと、海面の一部が軽墓の血で赤く染まっていた。


身体が浮かんでこないところを見ると、灰寺が呟くように言う。


「会社の金を使ってバカラで金を溶かして奴が、被害者ヅラしてんじゃねぇよ、まったく」


そう吐き捨てた灰寺は、国蝶に頭を下げると、部下たちに指示を出してクルーザーを陸へと戻すように伝える。


慌ただしく動き出した部下たちの傍では、抜け殻のようになったルイが佇んでいた。


彼女は、軽墓がなぜ殺されたのかも理解できず、ただ彼が落ちた海を眺めている。


国蝶はそんなルイの背中をポンッと叩いたが、何か声をかけたりはしなかった。


静かに、そして優しく、慈しむように彼女を撫でているだけだ。


「少し休むといい。仕事熱心だったお前には、まだ有給休暇がたっぷり残っているからな」


ようやく口を開いた国蝶に、ルイは何も言い返すことができずにいた。


そのときのルイは、脳内で何度もクロエに声をかけ続けていたが、彼女からの返事はやはりなかった。

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