#36

手洗いを終え、部屋着へと着替えたルイが戻ると、国蝶は早くテーブルに着くように声をかけた。


それから二人で向き合って食事を始める。


「うまい! 会長の料理でお店を開けば、きっと毎日行列ができちゃいますね」


ポークソテーを切り分けてから、米と一緒にパクパクと頬張っていくルイ。


彼女が口にしている言葉はお世辞ではなく、実際に国蝶の作る料理の味はプロ顔負けのものだった。


貿易会社アンナ·カレーニナの先代の会長であり、すでに亡くなっている国蝶の旦那はかなりの美食家だったが、彼女にガッチリと胃袋を掴まれていたくらいだ。


犯罪組織のおさをを務めている女性で、彼女ほど料理が上手な人間もいないだろう。


「そうか……。ならいっそ、私とお前で定食屋でもやるか?」


「え……?」


ルイが両目を見開くと、国蝶は手に持っていたスプーンをテーブルに置いて、椅子の背もたれに寄りかかった。


そして、彼女は目を瞑ったまま、戦役を終えた軍人のようにくたびれた顔になる。


「もう疲れた……」


そう呟いた国蝶の顔には、普段は目立たないしわがびっしりと現れ、どこにでもいる老女へと変わっていた。


化粧を落としているせいもあるのだろうが、ここまで彼女が老け込んでいる姿を、ルイは見たことがない。


そんな国蝶を見たルイは、料理に伸ばしていた手を止め、フォークとナイフをテーブルへと置いた。


国蝶はそんなルイを一瞥すると、再び両目を瞑る。


そして思う。


限界など、もうとうに超えている。


本当は、ずっと昔から貿易会社の会長など辞めたかった。


犯罪組織のボスなどという立場など放り出してしまいたかった。


だが、そんな勇気など自分にはなかった。


貿易会社アンナ·カレーニナは、世界中にマーケットを持つ企業だ。


そのため、各国の裏社会との結びつきも強い。


自分が仕事を投げ出して逃げ、もし取り引き相手の組織が不利益をこうむることになれば、自分を当然として、社員たち全員の命が危険にさらされる。


そういう事情から、国蝶は辞めたくとも会長の座から降りることができなかった。


だが、もう限界だ。


自分は十分旦那への義理は果たした。


なにしろ、腹を痛めて生んだ娘を殺してまで会社を守ってきたのだ。


そんな考えが脳裏に浮かんでは消えてきた頃――。


先代からの幹部である灰寺が、彼女の前に新入社員を連れてきた。


中途採用で若い女性が入ったことに、多少の興味を持ったと口にした国蝶の言葉を、灰寺は覚えていたのだろう。


そういえばそんな話もあったなと思った彼女は、灰寺が有能だいう若い女と顔を合わせた。


それが緩爪ゆるづめ·ルイだ。


国蝶は最初こそ、ルイの長過ぎる髪を見て嫌悪感を覚えたが、その声や顔の雰囲気から娘のことを思い出した。


ルイの持つ明るさや無垢な感じが、殺してしまった娘と重なったのだ。


ヤクザな旦那と気の強い自分から、なぜあんな無邪気な娘が生まれたのか。


そんなことを思い出しながら、国蝶はこれはいい機会なのかもしれないと考えていたのだった。


「静かに暮らしたい……」


「ハハハ、だいぶお疲れみたいですね。すぐにお風呂の準備をしますよ」


ルイは、残っていた料理を口に詰め込むと、浴室へと向かうおう椅子から立ち上がった。


すると、国蝶は手を伸ばして、彼女の動きを止める。


「なあ、ルイ……。私の傍にいてくれないか?」


「会長……」


「フン、冗談だ。本気にしなくていい。……風呂の支度を頼む」


「はい」


国蝶にそう言われ、ルイは食器をキッチンの流し台に運んで水を付けると、浴室へと向かった。


たわむれにしては言葉が過ぎた。


「ふぅ」とため息をついた国蝶は、そう思いながら再びフォークとナイフを手に取り、食事を始める。


皿の上に乗ったポークソテーを、さらに細かく切り分けていく。


いや、戯れなどではない。


本気だ、自分は本気でそう思っている。


だが、それをするにはどこか切りの良いところで仕事を終わらせねば――。


「こんなことを考えるようになるとは……。私もそろそろ潮時かもしれんな……」


自嘲するようにそう呟いた国蝶は、フォークで突き刺したポークソテーをゆっくりと口へと運んだ。


すっかり冷めてしまった料理を食べ終えた彼女は、食器をそのままに席を立ちあがり、浴室へと歩を進めるのだった。

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