#37
――それから数日後。
国蝶は灰寺とルイを連れて、貿易会社アンナ·カレーニナの本社の最上階へとエレベーターで上がっていた。
本社の最上階には、会社にとって重要なものがある。
灰寺はまさか国蝶がルイにそれを見せるつもりかと、内心で冷や汗を
その重要なものとは、貿易会社アンナ·カレーニナすべてのデータが入った量子コンピューターだ。
量子コンピューターは、重ね合わせや量子もつれといった量子力学的な現象を用いて、従来のコンピューターでは現実的な時間や規模で解けなかった問題を解くことが期待される量子計算機である。
量子力学という、従来のコンピューターとは全く違う原理を採用することで、圧倒的な情報処理能力を持つ。
国蝶は先代であった旦那が亡くなったときに、量子コンピューターの開発に力を入れ、これまで何度も会社の命運を託してきた。
いわば最上階にある量子コンピューターは、貿易会社アンナ·カレーニナの心臓だ。
社内でも実際に量子コンピューター存在を知るのは、会長である国蝶と灰寺を筆頭にした一部の幹部だけ。
しかも、その操作権限があるのは国蝶だけである。
灰寺は思う。
やはり会長は、ルイに会社を継がせるつもりなのだと。
しかし、それにしても早過ぎる。
ルイはたしかに仕事を成功させ、会社に尽くしてきたが、彼女は一度我々を裏切っているのだ。
まったく国蝶らしくないと思いながら、灰寺は彼女に声をかける。
「あの、会長。少々訊ねたいことがありまして、よろしいでしょうか」
「なんだ灰寺。手短に言え」
いつものように
どうやら彼女は、本気でルイに量子コンピューターを見せるつもりだ。
ギッと歯軋りをした灰寺はすぐに笑みを浮かべ直し、国蝶に答える。
「まさか
「あぁ、そうだ。何か問題があるのか?」
「いえいえ、特に問題はないのですが。彼女は優秀とはいえまだ入社して日も浅いことですし」
「なんだ灰寺。私のすることに文句でもあるのか?」
「い、いえ! けしてそのようなことは……」
灰寺と顔を合わせることもなく、背を向けたまま威圧する国蝶。
結局は彼女に押し切られ、灰寺は黙ることしかできなかった。
一方のルイは、そんな二人の様子を呆けた顔で見ているだけだった。
灰寺は焦る。
量子コンピューターには、クレジットカード等の情報保護等に使われている暗号化技術の解除を簡単にできるもの機能――量子ゲート型がある。
もし再びルイが会社に反旗を
そこまでルイのことを信用していていいのか。
灰寺は自分の立場がルイに追い抜かれることよりも、彼女に社内の秘密を握られることを恐れていた。
だが、そんな彼の心配など関係なく、エレベーターは最上階へと辿り着く。
三人は量子コンピューターのある部屋へと入る。
部屋の真ん中には、無数の配線に繋がれた近未来的なタワーのミニチュアのようなものが、まるで仏壇のように飾られていた。
「これはなんですか? 見たところ複雑そうなコンピューターのように見えますが」
「これは我が社のすべてだ」
国蝶はルイにそう答えると、量子コンピューターについて説明を始めた。
これがいかに重要であるかを、まるで子供に内密な家庭事情を話す母のように言葉を続けている。
従来の量子コンピューターの計算方法は、計算の種類や段階が増えると回路が増えて複雑になり、大規模な計算をしようとすると装置が巨大化してしまう問題があった。
だが、貿易会社アンナ·カレーニナの所有する量子コンピューターは、入力する情報や計算の種類、段階が増えても回路を増やす必要がなく、装置の大きさは変わらない。
装置は縦1.5m、横4.5mほどのテーブルに載るほどのサイズで、十円玉ほどのサイズのチップに収め技術の開発を可能にしている。
こんな小さな装置に会社のすべてが詰まっているのかと、ルイは口を大きく広げながら国蝶の話に相槌を打っていた。
「社内でも、これの操作が許されているのは私だけだが。ルイ、お前にも近々その権限を与えようと思ってな」
やはりそうかと、灰寺は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
その傍では両目を見開いたルイが、国蝶の言葉に驚き、思わず仰け反ってしまっている。
「でもわたしなんかが、こんな複雑そうなものを使えるようになりますかね?」
「心配するな。わかるまでゆっくりと教えていく。今日はお前にこいつの存在を知ってもらいたかっただけだ。操作方法の手ほどきは、また後日に時間を作る」
「は、はぁ……」
「どうだ? 少しだけ触ってみるか?」
「えぇ!? いいんですか!?」
「構わん。だが、私の言う通りにするんだぞ」
「はい!」
国蝶から操作方法を簡単に教えてもらうルイ。
二人はまるでパソコン教室の先生と生徒のように、複雑な量子コンピューターの操作系統の話を始めている。
そんな微笑ましい光景を眺めながら、灰寺は不安が止まらない。
本当にこの女を信用していいのかと、ルイへ疑念の視線を送り続けていた。
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