#35
――自宅へと戻った国蝶は、久しぶりに台所に立っていた。
上下白のパンツスーツから部屋着へと着替え、エプロンを付けて無洗米を炊飯器へと入れる。
「たしかこのボタンだったな」
それから早焚きモードで米をセットし、冷蔵庫を開けて食材を出し始めた。
国蝶は普段料理などしないが、ルイと共に暮らすようになってからは度々その腕を振るっていた。
さすがにこれまで雇っていた家政婦ほどの腕はないが、元々は彼女も主婦。
会社の社長だった旦那と娘のために、毎日食事を用意していたものだ。
100gの豚ロース肉を2切れフライパン焼きながら、塩小さじと白コショウ少々、さらにははちみつと汁を絞ったあとのレモンを加えて炒めていく。
国蝶が作っているのはポークソテーのハニーレモンソース添えだ。
トンカツ用のロース肉で作るボリューム満点の料理。
ソースは水溶き片栗粉でとろみをつけると、お肉にしっかりと絡んで美味しくいただける。
トンカツを揚げるより簡単に作れるので、夕飯に困ったときによく国蝶が作っていた一品である。
レモン汁とはちみつの効いた甘酸っぱい味付けがとっても爽やかで、亡き旦那と娘が大好きだった思い出の料理だ。
焼き終えたポークソテーを皿に乗せ、それに切った野菜を盛り付けてレモンソースをかける。
今夜はめずらしくルイが灰寺と飲みに行っていたが、国蝶は彼女の分を作ってラップをかけていた。
そして、炊いた米とお湯を入れるだけのコーンスープを器へと移し、完成した料理をテーブルへと運ぶ。
「うん。まだ私の腕も落ちていないな」
フォークとナイフを使って肉を切り分け、それを口に含むと、国蝶は満足そうに呟いた。
それから添えられた野菜と米を食べ、スープを一口すする。
国蝶はまだ料理が残っている状態で、手に取ったフォークをテーブルへと置いた。
自由になった手を伸ばし、椅子に背中を思いっきり預けて大きくため息をつく。
「どうも独りは落ち着かんな……」
旦那と娘が亡くなってから何年、何十年と経っていたが、国蝶は未だに一人暮らしに慣れなかった。
以前に灰寺から、何かペットでも飼うことを勧められて考えてもみたが。
犬と猫を二匹を購入しようとして、結局は止めた。
飼うのを止めた理由は、どうせ自分より先に死んでしまうという思いからだった。
もう先に
若くして旦那を失い、娘を手にかけなければならなかった国蝶にとって、自分が大事なものを失うことに対し、酷く敏感になってしまっていた。
ここまで会社のためにする必要があったのだろうか。
愛する男の忘れ形見を守るため、彼が息子と呼んだ社員たちを食わしていくために、国蝶は死ぬ思いで貿易会社アンナ·カレーニナを盛り立てた。
だが、そんな母のしていることが気に入らず、娘は会社を売ろうとした。
自分は、あのときどうすればよかったのだろう。
愛する男の形見を守るべきだったのか。
それとも大事な一人娘を守ればよかったのか。
結局は会社を選んだ国蝶ではあったが、どちらを選んだにしてもきっと後悔をするだろうと悩み続けている。
「ただいま帰りました」
国蝶が虚空を見つめていると、ルイが帰ってきた。
ルイは彼女が作った料理の匂いを嗅ぎ、満面の笑みを浮かべている。
「会長が作ったんですね。いや~美味しそうだな」
ポークソテーに顔を近づけたルイを見て、国蝶は思う。
この無邪気な笑みを見ていると救われる。
まるで娘が昔に自分に向けてくれた笑顔を思い出す。
国蝶が一人娘をその手で殺したとき、娘の年齢は今のルイくらい――二十代前半だった。
背格好も近く、そして何よりも彼女の底抜けな明るさに、国蝶は自分の殺した娘を重ね合わせていた。
ルイを見ていると、まるで娘が生き返ったかのように感じ、彼女が傍にいるだけで癒される。
「食べて来なかったのか?」
「それがですね。灰寺さんったら店に入るなりシャンパンをがぶ飲みし始めまして……。ろくに食事を取る前に連れて帰らなきゃいけなくなっちゃいました」
ルイが「ハハハ」と乾いた笑みを浮かべると、国蝶は椅子から立ち上がって冷蔵庫へと向かう。
「ちょうどいい。少し作り過ぎてしまってな。お前さえよければ温め直すが」
「えッ!? いいんですか!? やったッ!」
天真爛漫を絵に描いたように喜ぶルイ。
そんな彼女を見た国蝶は、やれやれと呆れながらもその口角を上げている。
「先に手洗いを済ませろ。それと、服も着替えて来い」
「はい! ちゃちゃっと終わらせてきます!」
背筋を伸ばして答えたルイは、すぐに洗面所へと駆けていった。
国蝶は彼女の背を見送ると、冷蔵庫を開けてラップに巻いておいたポークソテーを出す。
「やはりいいな……。こういう暮らし……」
そしてそう呟くと、電子レンジへと皿を入れて料理を温め直した。
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