第二章 薄氷の上

第六話 呼び出し

 キャンパスでの一件から数日。『学園』の理事長ドナルド・アーヴィングは統一総統官邸に呼び出されていた。

 すっかり灰色になった髪をオールバックになでつけた、細身で背の高い男だ。細い目の奥に潜む瞳は、齢六十九とは思えぬほどの力強い光をたたえている。


 首都セントラルシティの中心部に位置する官邸は、植民地時代のアルトベルゼ副王府をそのまま改修した代物であり、その名残から当時の名称のまま『ニューハイランド城』と呼ばれている。

 重厚感のある石レンガ積みの城塞は国の文化財にも指定され、その姿を後世に伝える為に日々保全活動が行われていた。


(作業員に紛れて工作員が潜入してもバレないだろうな)


 諜報の世界に足を踏み入れて、もう長い。ドナルドはそんな事をふと無意識の内に思いながら、城の中……「城主」の待つ統一総統執務室に向かった。


「学園のアーヴィングです。ただいま参りました」


 執務室の扉を三度叩いてそう言うと、程なく中から「入ってくれ」と声がかかった。アーヴィングはノブをひねり、執務室の中へ足を踏み入れた。


「少佐、すまんね忙しいときに呼び出して」


 部屋の上座。総統執務席に腰掛けていた老年の男はそう言って立ち上がると、手招きして部屋の中心にあるソファーにどっかりと腰を落とした。

 アルトベルゼ諸州連邦統一総統アレックス・アダムス。

 御年七十八、身長一五六センチの小柄で細身なこの黒髪の老人は、かつて自ら軍を率いてこの城に押し入り、圧倒的な手腕とカリスマ性によって一夜にして政権を奪取した。

 その腕は老いてなお一向に衰えることなく、様々なルーツを持つ人間が雑居するこの国において、三十年にも及ぶ長期独裁政権を未だに維持し続けている。

 男は、親しい人間をかつて軍にいた頃の階級や呼び名のまま呼ぶことを好み、またそう呼ばれることを好んだ。


「いえいえ、准将閣下のお呼びとあらば駆け付けぬ訳にはいきませんよ」

「俺に左遷されるのが怖いからか?」

「左遷で済めば御の字ですがね」


 ドナルドは促されるがままソファーに腰を下ろして、そう軽口を叩きあった。こういう事が言えるぐらいには、公私ともに長く付き合いを続けている。


「大佐はまだ来ておられないんですか? あの人が私より遅いだなんて珍しい……」


 大佐――エイブラハム・スタンフィールドは、この国の首相にあたる立法院国会総裁を務める人物だ。

 歳は七十二と二人の間ぐらいだが、ボディビルが趣味だと言うこともあってその見た目はまだ若々しさを保ち、焦げ茶の髪に混じる白髪も少ない。

 温和な性格と柔軟な発想から軍人文民問わず人気があり、保守強硬に走りがちな政権にブレーキをかけられる限られた存在だった。


「うん、憲法改正の件で色々仕事を任せてしまっているからな。近頃北も国内も旗色が良くない。学園の方も、援護をよろしく頼む」

「はい、お任せを。……閣下、今回はその件についてですか?」

「いやいや、君に発破をかけるだけなら電話一本で事足りる。ちゃんと本題は別に用意してあるよ」


 そうアレックスは笑みを浮かべると、前のめりになって告げた。


「君んとこの生徒会長――アラタ・L・シラミネだったかな?――のことなんだがね、卒業後は例年通り警護局に回して欲しい」


 総統の身辺警護を司る『統一総統警護局』は代々、学園の生徒会長が就職するのが通例となっている。

 しかし、ドナルドはその言葉を聞いて眉をひそめた。アレックスがその意を汲んだように口を開く。


「言いたいことは分かる。去年の件だろう?」

「……ええ。彼女のことで政権内部の方々の学園を見る目は変わりました。それに、この前のこともあります」


 学園の生徒会長として、既に警備局に就職が内定していたフェイ・リーが隣国キルグーシに亡命した末に始末されてから、もうすぐ一年が経つ。

 その一件以来、学園はそれまで毎年のように卒業生を送り込んで来ていた国内の各諜報機関から明確に敵対視されるようになった。

 学園の卒業生は、今や国内の全諜報機関の総員数のおよそ四割強を占める一大勢力となっている。

 生徒達は誰もが、学園で幼少期から工作とは、諜報とは何たるかを叩き込まれてきている。当然、機関の中で卒業生が活躍し、一定の発言力を持つ機会も多い。

 在校生達が収集した『情報』と、卒業生達が諜報機関で手に入れた『発言力』。学園は三十年の軍事独裁政権の中で、一際飛び出るになった。

 そんな学園に対する危機感を覆い隠しつつも、その影響力を排除したい勢力の大義名分に、フェイ・リーと言う明らかな学園の瑕疵かしとなる存在はうってつけだった。

 諜報機関各所は一件以来、諜報・工作員として勤務する学園の卒業生を何人も解雇し、或いは理由をつけて『始末』している。

 居場所を失った卒業生達は、元の古巣の学園で、教職員として生き延びるより他にない。

 そして、そこに追い討ちをかけるように数日前のキャンパスでの事件が起きた。

 過激派勢力とつながりを持つ教職員が多数在籍している事が発覚した学園の立場は、最早風前の灯火だ。


「そんな今だからこそ、学生達の優秀さと忠誠心をアピールする必要がある。

 今度の独立記念式典で、彼を俺の警備につけてくれ。白日の元で彼の実力と忠義……『天使殺し』の本領を見せつけてやるのだ。

 お前さんからしても、悪い話じゃなかろう?」

「……承知いたしました。すぐに準備に取り掛かります」


 アレックスは白い歯を見せ、にやりと笑った。



 *



「まーた難しそうな顔してるっスねぇ、かいちょー」


 キャンパスでの事件から数日。アラタは学校の片隅にあるいつもの広場のいつものベンチで、学園から渡された暗号書類に目を通していた。

 そのすぐ後ろには、警戒要員としてリタが背中合わせに突っ立って、教科書片手に勉強のフリをしている。

 これでもし他の生徒や教職員に見られても、平凡な昼休みを送っている普通の学生若干二名にしか見えないはずだ。


「そりゃ難しい顔にもなるさ。見てみるか?」

「私は荒事のが得意なタイプなんで遠慮しとくっス。中身だけ教えて下さい」

「お前それでちゃんと卒業出来んのかよ……処分されても俺は知らないからな?」


 ため息交じりのアラタの言葉に、リタは胸を張って自信有りげに答えた。


「この私を処分出来るもんなら、どうぞご自由にやってみろってモンっス! 私のしぶとさ、舐めんじゃないッスよぉー?」

「へいへい分かった分かった。『ワンマンアーミー一騎当千』のリタさんにゃ誰も敵いませんよ……ほら、教えてやるから近う寄れ」


 拳を振り上げガッツポーズして見せるリタにそう手招きして、アラタは後ろから覗き込んできた彼女に書類の中身を教えてやった。


「中身は大きく二つ。一つは前の件で奴らに内応してた教職員のデータと、確保した奴の証言。も一つは、襲撃犯の正体についての考察だな」

「先生の証言も?」

「欄はあるぞ、他の職員達と一緒に黙秘してるらしいけどな。備考に、近々身柄を南へ移すと書いてた」


 アルトベルゼ南部の島しょ部には、軍の極秘収容キャンプが存在している。

 日陰の島、総統の影、単に『南』とも呼ばれるこの施設では、捕虜や政治犯などに対する拷問を含んだ過酷な取り調べが日夜行われていた。

 彼女らが日の当たる場所に戻る日は、もう二度とやって来ないだろう。そう思うと、アラタは少しやるせない気分になった。


「……さっさと喋っちゃえばいいっスのに」

「譲れないものがあるんだろうよ、あの人らにも」


 そうして人は、譲れぬもののために死んでいく。フェイも、そうだった。


(先輩が先生の顛末を知ったら、なんて言うだろうか)


 二人は、本当の母娘のように仲が良かった。

 先生の娘は、もう五年も前に交通事故で既にこの世を去っていたそうだ。

 もしかすると彼女は、そんな亡き娘の面影をフェイの内に見出していたのかも知れない。


(もう、済んだことだ)


 アラタは書類をカバンの中に押し込めると、気分を切り替えるように空を見上げ、わざとらしく明るい声でリタに言った。


「放課後、ゲーセン行こーぜ」

「おぉ? かいちょーからのお誘いなんて珍しいっスね? もちろん着いていきますっスよ!」


 アラタのスマホに着信があったのは、その直後のことだった。

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