第一章 天使亡き国
第一話 西日
また、生徒会室にいる夢を見た。
視界の上が、じわじわと青紫に染まっていく。
鮮やかな西日が窓の向こうから差し込み、部屋全体がオレンジ色に色づいていた。
そんな教室の一番上座。
ご丁寧に机の上に『生徒会長 フェイ・リー』と記された立て札の置かれた席に、彼女は座っていた。
うっすらと白い湯気のたつブラックコーヒーが入ったマグカップを片手に、フェイは眉根を寄せてデスクトップとにらめっこしている。
窓からさす陽光が、彼女のボブカットに整えられた薄香色の髪を彩る。
そんな、いつも通りの光景を、アラタはじっと眺めていた。
教室には、二人の他に誰もいない。外のグラウンドから響くバスケ部の声と、フェイがキーボードを打つ以外は、二人の息遣いしか聞こえない。
ふと、パソコンから顔を上げたフェイと目があった。じっと見つめていたことがバレたらしい。
とっさにアラタは目をそらしたが、国内最優の学生スパイはそれを見逃してはくれなかった。
「ありゃりゃー? アラタ君、今私のことじっと見てたっしょ?」
「さぁ? なんのことやらさっぱり分かりません。言いがかりはよして下さいよ、先輩」
「あ、とぼけるの? この私にこの状況で?」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、にやにやとフェイがアラタを見つめる。気恥ずかしさのあまり、アラタの顔は耳まで真っ赤だ。
「思春期男子だねぇ、アラタ君」
「青春と言ってください」
破れかぶれで言い返すも、効果がないのはわかっている。
視界の紫が、だんだんと濃くなってきた。
「全く、仕方ない子ですなぁ……キミは」
フェイはそう言って立ち上がると、にやけ顔のままアラタの側までとことことやって来て、耳許でボソリと囁いた。
「そろそろ起きな。死ぬよ」
*
アルトベルゼ諸州連邦の首都、セントラルシティ特別市の港湾倉庫の裏に、一台の黒いバンが停車している。
アラタ・L・シラミネ――一般にはその名で通っている青年――はその車中で目を覚ました。頭がひどく痛く、息苦しい。
アラタはとっさにドアを開けようと試みるも、外側から固定されているかのように動かない。
額から冷や汗がにじんできた。視界が酸欠から真紫に染まりつつある。車のエンジンは、入ったままだ。
一酸化炭素中毒。そんな言葉が頭をよぎった。
アラタは胸元を開いたままのジャケットの内ポケットからサプレッサー付きの拳銃を取り出すと、そのグリップで窓ガラスを思い切り殴りつけた。
二、三度殴りつけ、粉微塵にガラスが砕け散ると、熱のこもった車内に冷気を持った風が吹き込んでくる。
アラタはようやく一安心したように息をつくと、運転席でハンドルにもたれ掛かったままの引率教師の脈を測った。
「……良かった。気を失ってるだけか」
視界の紫が引いていく。今のところ命に別状はなさそうだが、少し肩を揺らしても目を覚ます様子は無かった。
アラタは教師をその場に寝かしたまま、彼女のジャケットから無線機を取り出し、待機している仲間に非常救難信号を出して車のエンジンを切り、他の窓ガラスも叩き割って隙間から身をよじりながら、車外のコンクリート床に滑り降りた。
アラタはスマホを開き、今の日時を確認する。
聖暦二〇二〇年十一月三日。時刻は午後五時過ぎ。
ゆるゆると日は西の地平に沈み始め、労働者達はそろそろ定時帰宅の準備を始め、早いものなら既に帰路の途中にある。そんな時間だ。
背の高い港湾倉庫の暗い影が伸びていく。あと数分もすれば日没になる。
アラタは拳銃の
セントラルシティ市役所に勤務する公務員の一人が、度々正体不明の存在と密会し機密情報の取引をしているというタレコミが連邦警察にもたらされて、今日で一週間が経つ。
今回の任務……もとい『総合実習』は、そんな国家への
周囲に人の気配はない。こちらの存在に気付いて密会を取りやめたのだろうか。アラタは眉間にしわを寄せ、辺りを警戒しつつ車の周りを見渡した。
バンのドアは、案の定外側から何者かにロックされていた。
前後のドアの取っ手に何重にも巻いた針金で鉄パイプを固定し、後ろのドアに至っては念入りに釘まで打ってある。
タイヤは四つともナイフのような鋭利なものででパンクさせられ、まともな走行はもう出来そうに無い。
車のマフラーには、粘土状の物体がこれでもかというほど詰められていた。
(……判断ミスだな)
何かあったときのために即応出来るよう、エンジンをつけたままにしようと言ったのが間違いだった。
今年の秋は近年でも珍しいぐらいに冷え込み、体が冷えると任務に支障をきたすと思って暖房まで効かせていたのが、なお悪かった。
だが、
(なぜ、こんな回りくどいことを?)
車内の人間に気が付かれぬよう接近し、マフラーに物を詰め、判断が鈍ったところでドアをロックしタイヤを潰し……あまりにも手間がかかり過ぎている。
こちらの動きを止めたい、取引を邪魔されたくないなら、もっとシンプルな方法があったはずだ。それを何故、わざわざこんな事をしたのか。
瞬間、鋭い殺気が背を刺した。アラタは半身になって振り向きざまに発砲し、飛び退き車体に背を預けた。
カン、という高い音が、乾いた発砲音に混ざって辺りに響く。
殺気の方向に正対したアラタの視界の右端に、黒いパーカーに身を包んだフェイスマスクの人影が映った。
中肉中背少し猫背。骨格的には男のように思えたが、日没間近の薄暗闇にまだ目が慣れていないせいではっきりとしたことはわからない。
ただ、相手の得物が有刺鉄線を巻いた鉄パイプだということと、最初の発砲で傷を与えられたということだけは確実だった。
コンクリの地面にポツポツと楕円状の血痕が、足跡のように残っている。襲撃犯は倉庫の影に姿を隠したらしい。
先程までアラタが立っていた場所には今、
一撃で全てを終わらせようといった強い殺意を感じる、深い深い跡だった。
(謎、だな)
ここまでの殺意を持っていて、何故こちらが気を失っている間に殺さなかった?
襲撃犯と工作者が別口の可能性もあり得るが……。
「今考えたところで、しゃーないか」
今は、この状況をどうするか、それだけに頭を巡らせるべきだ。
相手は一人、こっちも一人、救援はまだ来そうにないし、相手も逃げた気配はない。
物陰から、物陰へ。こちらの様子を移動しながら窺っているような視線を感じる。
相手が物陰に銃器を潜ませていた可能性も無くはない。アラタは車体に身を隠しながら、相手の出方を警戒した。
(敵の思惑は、殴ってふん縛ればそのうちわかる……ですよね、先輩)
拳銃の残弾を確認しながら、アラタは心の中で呟きつつ、腰のベルトから抜いたコンバットナイフを左手に逆手で持って構えた。
ゆっくりと、足音が聞こえてきた。
相手が物陰から出て来たらしい。
急ぐでもない、油断を誘おうとするでもない、平然と歩いているだけのような、不気味な足取りを思わせる音。
それがアラタの背後――車を挟んだ運転席の向こう側――から、響いてきた。
(手練れだ)
後部ガラスとフロントガラスに隔てられたこの場所なら、アラタが狙い撃ちに出来ないことをよく分かっている。それに、中には引率の教師がまだ眠っているのだ。
左右のどちらから回り込むか、それとも裏を掻いて上によじ登って撃ち下ろすか。
「もっと賭け方を教えて貰ってりゃよかったな……」
ギャンブルは苦手なタチだ。アラタはそう吐き捨てる様に呟くと、深呼吸して心を鎮めた。
救難信号を送った待機班がここまで来るのに、最低でもあと数分はかかる。
互いの距離が縮まってきた。引率教師の寝姿は、もう相手の目にしっかりと入っているだろう。
――出てこい。仲間の命が危ないぞ
そう誘っているかのように、相手は段々と運転席に近づいていく。
このままならあの先生は頭を思い切りかち割られ、脳みそを床にぶちまける羽目になるだろう。その片付けをするのは誰でもない、すぐ近くにいるアラタ自身だ。
掃除は、アラタが最も苦手な作業の一つだ。考えるだけでも
もう、救援を待っている暇は無い。
アラタは身を翻して車体の上に飛び乗ると、勢いのままに黒フードの男を撃ち下ろし、そのまま飛び掛かるように押し倒した。
うっ、という低いうめき声が、襲撃犯の覆面越しに聞こえてくる。
アラタはフェイスマスクの上から口に拳銃をねじ込み自決を防ぐと、喉笛にナイフの刃を押し当てた。
「動くな。自決も許さん。俺の勝ちだ」
覆面の切れ間から覗く、殺気の籠もった黒い瞳と髪に、色白ながら少し黄みがかった肌。どうやら東洋系の男らしい。
目元にどこか懐かしいような、既視感じみたものを覚え、アラタは一瞬眉根を寄せた。
男は自分の敗北を悟り、諦めたように脱力して殺気を解いた。
「何故、俺達を襲ったか。その理由を話してくれるんなら、今すぐこの銃を外そう。どうだ?」
男は小さく頷いた。アラタも答えるように頷き返すと、ナイフはそのままにゆっくり銃口を外した。
「流石、お強いですね。おれの覆面を外してください、アラタさん。それで全てがわかるはずです」
「何?」
男の口から聞こえてきたのは、予想外に若い声だった。まだ変声期も迎えていなさそうな、少年のような高い声。
そして、何故名前を知っている? この男は、一体……。
アラタは拳銃を持ったまま、その覆面を外してやり、思わず息を呑んだ。
「初めまして。おれの名前はジェームズ・F・リー。フェイ・リーは、おれの姉です」
そこにいたのは、フェイに瓜二つの顔をした、黒い髪の少年だった。
港湾倉庫群の入り口辺りから、車の音が響いてくる。
救援が、ようやく到着したらしい。
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