第四十一話 五大湖
初夏を迎えた五大湖沿岸は、淡い色をした若草に覆われている。
少し早めのバケーションにやって来たのだろう人々を眺めながら、アラタはボソリと呟いた。
「こんなに、良いところだったんだな」
今まで二度訪れたときはどちらも生き物の生存を許さぬ真冬の時期だったから、アラタはこのような光景を目にしたのは初めてだ。
穏やかな水色の湖面の向こうに、薄っすらと対岸の景色が見える。
青々とした葉を広げる木々を林立させた山脈。それを背に追う軍事基地。……フェイは、あそこでアラタの手に掛けられた。
そしてまた、アラタはそこにいるはずの男を殺す。
(理事長……)
クーデターによって築かれた、強いアルトベルゼを維持するために足掻き、奔走し、多くの人々の屍を
強き総統に憧れ、彼のようになりたいと望み、そのためにあらゆる者を殺し尽くした影の総統。
国を追われたその男――ドナルド・アーヴィングは今、再起のため、隣国キルグーシに身を寄せている。
最後の任務が、自分の父親も同然の男の殺害などという運命の皮肉に、アラタは思わずため息をこぼした。
スタンフィールドとの会合を経た翌朝に教会を発ち、今日で三日。
この数日、首都のセントラルシティでは公衆の面前でアラタをみすみす逃がした挙げ句、未だ捕まえられない警察や政権に対しての批判デモが頻発している。
混乱は首都だけに留まらず、騒動は各地へと波及。
事ここに至って軍部は、セントラルシティを中心に独自の戒厳令を布告。アルトベルゼは今、急速に内乱への道を歩んでいる。
(裏にはきっと、『セラフィムの意志』の残党がいる)
軍部の力を削ぐような動きを見せるスタンフィールド政権への反発や不満は大きい。
軍内部の過激派の一部が、新たな協力者として彼らを選んだのだろうことは、想像に難くない。
暴徒鎮圧の名目で兵を挙げ、勢いのままに政権を乗っ取る。三十年前のアダムス総統によるクーデターと同じストーリーをなぞるつもりなのだろう。
そして、成功の暁にはキルグーシからドナルド理事長を呼び寄せ、勝者のイスに座らせる。
その前に、アラタは何としてでも彼を殺さなくてはならないのだ。
「なに難しい顔してるんスか、かいちょー」
不意に背後からそう声をかけられ、アラタはそちらを振り返る。
リタは、このあたりの名物である五大湖マスのフィッシュバーガーの袋を片手に、のんびりとした顔をしていた。
「お前がのんき過ぎるんだよ。バックアップ担当だからって一丁前にバカンス楽しみやがって……こっちは今から親殺しするんだぞ?」
「ならなおのこと英気を養わないとダメっスよ~。ほれ、かいちょーの分も買ってきてありますから、一緒に食べましょ?」
苦笑しながら言うアラタにそう返すと、リタは袋からバーガーを取り出し手渡した。
アラタは一つため息を付いてそれを受け取ると、包みを開いて口にした。
「……うまいな」
「でしょー? これ食わずに夏の五大湖は終われないっスよ」
自慢気に胸を張るリタを横目に、アラタは無心でバーガーを食べ進める。
ふわふわのバンズ、サクサクとした衣に包まれた柔らかく甘い白身、マヨネーズとソースの酸味と旨味……。
この土地には、今まで一つもいい思い出が無かった。
アラタにとっての五大湖沿岸は、自分の罪と業が刻まれた、忌むべき大地だった。
だが、ここにはこんなにうまいものがあったのだ。
今まで見てこなかった、見ようとしてこなかった多くの素晴らしいものが、ここにはある。
ここだけではない。
薄っすらと絶望していたこの広い世界には、きっと思っている以上に素晴らしいもの、うまいもの、希望に満ち溢れたものがある。
ただ、今までそれを知らなかった。それだけなのだ。
(フェイ先輩)
心の中で、アラタは呟く。
(あなたも、こんなうまいものを食べたんですか?)
広い世界の素晴らしさを、その目に見てきたんですか?
死人に口は無い。残された者はその意志を、望みを、記憶を、想像することしか出来ない。
アラタは最後の一口を食べ終えると、また、大きくため息をついた。
「リタ」
「はい」
「全部終わったら、世界一周旅行にいくぞ。お前も付き合え」
「……はい」
夜半、アラタはゴムボートに乗り、対岸へ渡った。
フェイも見たことの無い世界を、いつか見に行く。その、強い意志と共に。
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