第八話 薄氷を踏むが如し
喫茶店を襲った初老の男の身元は、その日の内に割れた。
マイケル・ブラウン。セントラルシティ郊外に住む六十八歳の元陸軍将校で、『中央』にも在籍していた記録がある。
家族は国外に留学中の孫娘が一人いる他には無く、一人暮らしだったそうだ。
元将校とは言うものの四十代の半ばごろには既に退役していたようで、それからは六十五歳まで職を転々とし、退職後の現在では年金暮らしをしていたらしい。
持ち物は凶器となった拳銃と弾丸の入ったマガジンの他には、孫娘が作ったのだろう古びた手縫いのクマのストラップがついた家の鍵がコートのポケットにねじ込まれていただけだった。
街の防犯カメラにギャングやマフィアと取引を行う姿が複数映っていたところを見るに、凶器は彼らから手に入れたようだ。
「まぁ経歴とかタイミングを考えても、十中八九、九分九厘『中央』のエージェントだと考えて間違い無いだろうな」
既に夜の帳が下りた街。学園が用意してくれた車の中で、アラタはリタと後部座席に座って渡された資料を凝視していた。
「子飼いの反社連中使ってあれこれやるのは、あの人らの
湖畔派は、青年将校や現場叩き上げの中堅幹部達で構成された陸軍内部の派閥だ。
構成員の多くが、アダムス政権誕生直後にキルグーシとの間で起こった『五大湖戦争』で実際に戦地に赴いた者達であり、総統からの厚い信頼の下、軍内外に強い影響力を持っている。
その湖畔派の中でも一際求心力を誇っている人物こそ、『中央』の部長、エドワード・ウィルソン大佐だ。
「にしても理事長も
「ま、狙われるだけのことはしてるっスけどねぇ」
ルームミラー越しに、運転手が苦笑いするのが見える。制止したり、あるいは諌めたりしない辺り彼も思うところがあるのだろう。
「それでも、今回のアレは本格的なもんじゃないでしょ?」
資料からさっと顔を上げてそう聞くリタに、アラタは「だろうな」と頷いた。
「あまりに作戦がお粗末すぎる。今回のは理事長への
「下手に動くと次は心臓を一発で……バキュン! ってやつっスね。おーこわ」
芝居がかった動きと声でそう言うリタを横目に見つつ、アラタはまた資料に目を落とした。
(……タイミングが良すぎる)
アラタの警備局行きの件は、既に関係各所の知るところだろう。
上――アダムス総統直々のご指名だ。『学園』を目の敵にする『警備局』も『中央』も、表立っては反発できない。
それならば『警備局』が取れる手は、せめて『学園』の動きを封じること。「こちらはいつでもお前の命を狙えるぞ」、「お前はどうやったってこちら側には敵わんぞ」と暗に伝えて『学園』自らが身を引くよう仕向けるのが一番だろう。
(そうなると、『警備局』が『中央』と手を組むのは自然な流れだな)
そもそも、双方の支持母体は重複している部分がある。根っこの方が同じなら、意見をすり合わせるのも難しくはないはずだ。
『警備局』と『中央』。二つの組織から次期総統の統一候補が現れれば、ただでさえ求心力を失いつつあるドナルドに勝ち目はない。
(後継者争いが、激化する)
ここから先は、一手でも取るべき行動を間違えれば命取りになりかねない、まさに薄氷の上を歩くような日々になる。
国の行方、老いた総統、風前の灯火と化した『学園』、フェイの弟を名乗る謎の男。そして、『セラフィムの意志』なる何か……。
(先輩。もしあなたがここにいてくれれば、俺は――)
「リタ」
「はいっ?」
アラタは資料から顔を上げると、リタの方を向き直り、やけに真面目な声音で言った。
「俺より先に死ぬなよ」
「大丈夫っスよ。私、フェイさんからかいちょーのこと任されてるっスから。
たとえ死んだって、
「……そうかよ」
車は夜の街を行く。アラタはスマホを開くと、友人に向けてメッセージを送信した。
*
『“教授”、こちら留学中の“ジョン・ドゥ”です。先程ジェシー・ブラウンを保護しましたので、これから護衛任務につきます。
ハッキリわかり次第また連絡させていただきます。では後ほど』
「うん。ご苦労だった。また」
ドナルドは電話を切ると、大きなため息をついて目頭を押さえ、どっかりと執務室のソファーに腰を落とした。
鉛のように重たい疲労が、体の芯から末端にまで広がっている。今、この場に客人がいなければすぐにでも深い眠りに落ちてしまいそうだ。
「北グルべ連邦に潜入している学生からの報告です。無事に彼の忘れ形見を保護出来ました。ご協力、本当にありがとうございました、大佐」
ドナルドはそう、テーブルを挟んだ向かい側に腰掛ける客人――エイブラハム・スタンフィールド立法院総裁に告げた。
スタンフィールドは小さく頷くと、渋い顔で呟く。
「不幸中の幸いでしたね、少佐。後で僕の方から国王陛下とケンブルク卿にお礼の電話をかけておきます。
少佐、どうか気を落とさないで下さいね。少なくとも僕は、貴方のことを一番の頼みに思っていますからね」
「はい、ありがとうございます」
ドナルドはかすれた声でそう言って、頭を垂れた。
……マイケル・ブラウンは、ドナルドが士官学校に通っていた頃からの後輩だった。
普段は寡黙な男だったが、妻の事と趣味のカーレースの話になると夜通し話し明かしても足りないほどの情熱を胸の奥に秘めた、魅力的な男だった。
先輩後輩の垣根を超えて語り合える、良い男だった。
彼が『中央』に配属されたのは、ドナルドから数年遅れた頃。
既にドナルドは少佐としてある程度の地位を手にしていたが、そんな彼にマイケルは以前と変わらぬ態度で接してくれた。
親交があったアダムスのクーデターに同調したのときも、マイケルはその真意を良く理解してくれたし、計画の成功に大きく寄与した。
彼がいなければアダムスもドナルドも、今の地位にはいなかっただろう。そう思うほどにマイケル・ブラウンという男は優秀な工作員で、将校だった。
(……だから、立場を失った)
ドナルドが『学園』設立とともに『中央』を離れた後、しばらくして組織を掌握した湖畔派によって彼は居場所を追われ、野に下った。
今思えばその時から、湖畔派は急速に政権中枢に接近したドナルドのことを警戒していたのかも知れない。
居場所を無くし、愛する妻子にも先立たれ、長い孤独と貧困に落ち、それでも最期に残った孫娘の命と未来を守るため、男は差し出された拳銃を取るしか無かった。
ドナルド・アーヴィングを撃て。さもなくばお前と孫娘の命は……そう命じられた時のマイケルの心境は、ドナルドには察するに余りある。
「彼の死は無駄にはしません。私も早晩、行動を取るつもりです」
「警備局のロック局長は、貴方も知っての通りやり手です。中央のウィルソン君とも協調しているようですし、ここから先は、僕には手出しが出来ない状況になる。
……それにしても、総統も本当に酷なことをなさる」
スタンフィールドが苦々しい顔で頭を抱えるのを見ながら、ドナルドも僅かに頷いた。
「これも、閣下なりの試験のおつもりなのでしょう。最も強い者こそが俺の跡を継げ、と。だから警備局の増長も、湖畔派による中央の強権化もある程度は見逃してこられた。
そもそも、湖畔派は閣下の強力な支持があって拡大した組織ですから」
「その強敵を、貴方はどう切り崩して総統になるおつもりですか?」
男は静かに立ち上がると、窓の外に目をやった。
夜の帳が下りた街の空に、一筋の流星がきらめき、消える。
(マイケル……君は、気付けなかったか)
「フェイ・リー」
「え?」
ドナルドは、かつて教え子の一人だった少女の名を呟いた。
五大湖の天使、
彼女を慕う者は未だ学園の内外に多いが、その死の真相を知る者はほとんどいない。
「彼女なら、今の盤面を全てひっくり返すことができます」
「でも、彼女は」
言い淀むスタンフィールドの方を振り返り、ドナルドは不敵な笑みを浮かべて言った。
「あの子の意志は、生きています。大佐、私に一つ策があります。彼らを打ち破る策が」
この一件が、ドナルド・アーヴィングという男にとっての狼煙であったことを知る者は、まだ誰もいない。
ただ一人、この場にいたスタンフィールドだけが、運命の歯車が大きく動き始めたことに気付いていた。
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