第五十三話 天使の微笑み
「落ち着いた?」
「……はい、なんとか」
窓の外に宵の帳が下りた頃、アラタはようやっと落ち着きを取り戻し、少し潤んだ目をフェイから逸らして頷いた。
自分が想い人に縋り付いて泣きじゃくっていたという事実が、今更になって恥ずかしい。
「へへ、なら良かった」
だが、そんなアラタの様子を特にからかうでもなく、フェイはあっけらかんとそう言って自分のマグに入ったコーヒーに口をつけた。
あのマグの中に入っているのは、きっと彼女好みのブラックだろう。
随分ぬるくなってしまっているはずだが、そんな事気に留める素振りすら見せず、フェイはじっとアラタをことを見つめている。
「おっきくなったね、アラタ君。顔つきも、随分変わった」
アラタのマグのすぐ隣に自分のマグをコトリと置いて、フェイはすっとアラタの顔を覗き込む。
嬉しそうな、寂しそうな、ほんの少し悲しそうな、様々な感情がないまぜになったような複雑な表情でそういうフェイに、アラタは静かに返事した。
「……先輩は、あの日からちっとも変わりませんね。変わらず、優しいままだ。
俺は、前とは随分変わってしまった。あなたとの約束も、何一つ守れやしなかった」
「そんなことないよ」
「え?」
思わず聞き返すアラタに、フェイはきっぱりと言い切った。
「君は、生きた。一生懸命頑張って。それで充分だよ」
言って、フェイは柔らかに微笑んだ。
「だから、自分を責めないで。もっと、胸を張ってよ。君は、ヒーローなんだから」
そんなことを言われると、また涙が溢れてくる。
アラタは照れ隠しするように顔を背けると、両目を袖で拭った。
そんな彼の頭にそっと手を回し、フェイは自分の胸に抱き寄せ、撫でる。
「よく、頑張ったね。偉いぞ、コーハイ君」
この瞬間が、ずっと続けばいいと思った。
同時に、今までの日々を思い返し、地獄行き確定のような自分がこんなに幸福でいいのか、本当にやり残したことは無かったのか、とも。
そう思ったとき、不意に脳裏に一人の顔が閃いた。
優秀で生意気な、それでもどこか放っておけない、後輩の横顔。
アラタと同じぐらいにフェイを愛し、アラタと同じぐらいにアラタが嫌いな彼女。
自分一人がおらずとも、あいつは上手くやるだろう。
だが、その活躍をもっと見ていたい、手助けしてやりたいという思いが溢れ、アラタはうろたえた。
フェイが、優しく囁いた。
「やり残したこと、あったみたいだね」
フェイは少し離れると、アラタの顔を覗き込んだ。
「私達の、大事な後輩。あの子が、心配なんだね」
「……すいません、フェイ先輩」
「ううん、謝らないで。むしろ、ありがとう。君がそう思わなかったら、私の方からお願いしてた。
私も、あの子に重荷を背負わせちゃったから、ね」
窓の外が、眩いほどの光に包まれていく。
もうお別れが近いことを、アラタは直感的に悟った。
「もうそろそろ、ですか」
「うん。名残惜しいけど、ね。でも、私としては凄く嬉しい」
「どうして?」
「君が、また生きてくれるから。かな?」
言いながら、フェイは笑ってアラタの背を押し、出入り口の方へと促し歩く。
扉の向こうに、気配があった。
「君の友達が、迎えに来たみたいだね。……さ、行っておいで」
「…………先輩」
扉に手をかけ、アラタは言う。
小首を傾げるフェイに、アラタは意を決して、問い掛けた。
「俺、先輩のこと、好きでした。本心から、ずっと。
あの日、それに貴女も答えてくれた。先輩、あれも、本心ですか?」
フェイは何も言わずにアラタの頬に手を添えると、その唇に、そっと唇を重ねた。
柔らかで優しい温もりと、吐息。それが、答えの代わりだった。
ひとりでに扉が開く。
どちらからとも無く唇を離すと、アラタは、大きく頷いた。
「……先輩、行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい。
今度は、もっとゆっくりおいで。私はここで、ずっと君を待ってるから」
アラタは、光の中に一歩、足を踏み出した。
――またね、アラタ君
夢と現の狭間。残り香のようなその声が、アラタの耳を掠めていった。
市立スパイ学園の生徒会長〜『天使殺し』の英雄が、国家転覆を図るまで〜 かんひこ @canhiko
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