第二十一話 夕闇に堕つ

 ある、晴れた日のことだった。

 セントラルシティの外れには、貧しい人々が暮らすスラムがある。

 不潔で、不衛生で、クスリや盗みや暴力沙汰など話題にも登らないほど荒れた“掃き溜め地区”。

 常人なら決して寄り付かないその区域に、アラタはフェイに連れられてやってきた。


「案外静かですね」

「この辺りの悪い奴らはみんな一度は私がボコってるからねぇ。怖いんじゃない?」


 あたりを警戒しながら呟くアラタに、フェイは事もなげに「へへへ」と笑いながらお気に入りの店のチュロス入りシェーキを右手に、花束を左手に抱えてそう言った。


「へへへじゃないでしょあなた」

「いやぁー、昔は私もワルだったからねぇ。売られた喧嘩は買っちゃうっていうか、買いに行くっていうか……」

「あんたは狂犬かなんかですか? ワクチン今から打ちますか?」

「注射だけはホント勘弁してけれぇー……」


 そんな軽口を叩きながら不気味な静けさと視線を感じつつ歩くこと数分。先行するフェイが、一つの電信柱を前に立ち止まった。

 路地裏から伸びる細道とメインストリートが合流する丁字交差点脇のその電柱は、どれだけ破損していても一向に修復されないスラムのものとは思えないほど、真っ直ぐその場に立っている。

 そんな明らかに異質な電柱を、フェイどこか懐かしむような微笑みを浮かべて撫でていた。


「アラタ君、ここだよ。この場所で、私は『学園』と出会った。

 パパとママは、ここでトラックに跳ねられて死んだ……私が、まだ三つの頃だった」


 厄介なのが来る前にとっとと済ませちゃおう。そう独り言のように言って、フェイはその場に屈んでシェーキを地面に置くと、電柱に花束を供えて手を合わせた。

 アラタも、付近を警戒しながらそんな彼女に習って祈りを捧げる。


(この人の両親は、どんな人だったんだろうか)


「パパ、ママ。今日は可愛い後輩クンを連れてきたよ。どう、結構ハンサムでしょ?」


 ほこり臭いスラムに、フェイの声が静かに響く。

 僅かながらにでも両親との思い出がある彼女が、アラタにはほんの少し羨ましかった。



 *



「なん、で……?」


 墓標を前に愕然として、膝を屈したアラタはかすれた声でそうこぼす。

 あるはずのない、あってはならない人の墓が、そこにあった。


   Fayeフェイ Leeリー 2001〜2019

   emocracy iberty eace


 そう刻印された白い墓石は、彼女の両親のものだろう古い墓標と隣り合わせに立っている。

 三つの墓の周りには多くのまだ新しい花や菓子類が供えられ、一際良く手入れが施されていた。

 言葉を失ったアラタに、ホワイトは静かに理由を告げる。


「フェイさんの遺言に則り、彼女のお墓はご両親の隣に立てさせて頂きました。標の下は、どれも空の墓穴のままですが。

 お名前の下に記された言葉は、あなたに宛ててのものだそうです。あなたなら、きっとこれが何か分かる、と……」

「俺、に?」


 アラタは震える指で、名の下に刻まれた言葉を撫でた。


 emocracy iberty eace


 どこか既視感のある文字列だった。だが、何が足りない。足りないのだが、自分は確かにこれと似たような言葉を見たことがある。

 動揺に震える頭が、思考を始めると同時に段々とクリアになっていく。

 彼女が今まで残したものの中に、確かにこれがあるはずだった。アラタにだけ分かる、アラタ以外には分からないような。


(フェイ先輩。あなたは一体俺に、何を伝えたかった……?)


 その瞬間、アラタの脳に稲妻のような閃きがほとばしった。

 難解なジグソーパズルの空白が一つ消えたような感触が、アラタを打ち震わせていた。

 フェイの残したかった意志は、常にアラタのそばで、目覚めの時を待っていたのだ。


 ――DLP.


 彼女がアラタに送る手紙やメール。彼女が唯一アラタに残してくれた、聖書の如きあの伝記。

 フェイ・リーという人物がアラタに何かを伝えたいとき、メッセージを残したいとき、常にその文字が傍らに控えていた。

 フェイは、絶えず自分の意志をアラタに伝え続けていたのだ。


Democracy民主主義 Liberty自由 Peace平和.」


 墓石に掘られた文字に『DLP.』を付け加え、気が付くとアラタはそう唱えるように、誰にも聞こえぬように呟いた。

 目尻からこぼれた雫が、音も無く頬を伝っていく。

 視界が、じんわりとぼやけてきた。


「先輩。これが……あなたの残した意志ですか?」


『セラフィムの意志』やジェームズが主張するようなものではない、フェイが残したかった本当の意志がここにある。

 誰にも残すことの許されなかった、永久凍土の雪の下に埋もれるはずだった彼女の願い。それが、今、ここに。


 これがもし、もし本当にこの言葉だとするのなら、それを知る唯一人の生者であるアラタのなすべきことは、既に決まっている。

 死者は何も語らない。残された者達はただ、死者が置いていった物や言葉からそれを推察することしか出来ない。


 アラタはこの日この瞬間、自らのその推論をフェイの意志だと確信した。そう思うことに、決めた。


(これが、俺の信じる『セラフィムの意志』だ)


「先輩。あとは、任せて下さい」


 偽りの意志を打倒し、真実の意志を達成する。その為なら、どんな手段を講じることも厭わない。

 胸の奥底で、アラタは固く決意した。


 夕日が地平に沈み込む。

 深く黒い夕闇が、アラタの身体を覆い隠した。



 *



「ええ、はい。無事に彼をこちら側に引き込めました」


 夜帳が下り、皆が寝静まった教会の地下。ホワイトは電話口にそう声を吹き込む。


「後のことは心配無いかと。それだけ彼女の存在と言うのは、彼にとって大きかったようです。……正直、予想以上でしたがね」


 一息付くとホワイトは、


「では、また後日。スタンフィールド首相Prime minister閣下。アルトベルゼ万歳」


 とだけ言い残し、電話を切った。

 その足下には、灰になった紙切れが散らばっていた。

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