第三十五話 その伝記、その意志

 降りしきる雪に濡れながら、リタとネリは示し合わせた訳でもなく自然にアラタの家に行き着いた。

 玄関先にジョンの姿は無い。

 開けっ放しのドアをくぐり、靴箱の真横ある姿見をちらりと見て、リタは初めて自分の唇が青紫色になっているのに気がついた。

 思えば、先程から随分寒い。指先に目をやると、白く小刻みに震えている。体温が下がりきってしまう前に、体を温めなくては。


「シャワー、浴びてくる」


 ネリが頷くのを見て、リタはシャワールームに入った。

 暖かな湯を頭からかぶると、全身を覆っていた薄氷が溶け出すような心地になった。

 冷気と共に土や血が、湯に運ばれて排水口の奥に消える。

 この家の主も、冬の日にはこうやって温もりに身を委ねたのだろうか。

 そんなことを思いながら、リタはまた、人知れず涙した。


 リビングの方から、ニュース番組らしい声が聞こえてくる。

 手持ち無沙汰になったネリが、情報収集も兼ねてスマホから流しているのだろう。

 どんな内容かは、シャワーの音に紛れてもなおよくわかった。先程の事件のことだ。


 十分に温まり終わったリタがシャワールームから出ると、扉の前に置かれた籠には乾いたタオルに加えて新しい服と下着が入れられていた。

 ネリが気を利かせて持ってきてくれたらしい。男もののそれらは、大方アラタのクローゼットにあったものだろう。

 わしゃわしゃと髪と身体の水気を拭き取り、リタは着替える。慣れ親しんだ、アラタの使う柔軟剤の匂いがふわりとリタを包み込む。

 確か、以前フェイに貰ったものと同じ柔軟剤を使っていると言っていた。不思議と懐かしさを感じるのは、それも理由のひとつなのかもしれない。


 ドライヤーをかけるのが億劫で、リタはボサボサに湿った髪を揺らしながらリビングに入る。


「ありがと」

「……おう」


 振り返ったネリはそう短く答えると、番組がついたままのスマホをテーブルに置いて、自分もシャワーを浴びに行った。


 もうじきに、この家にも捜査当局が押し寄せて来るだろう。そうなる前に一通りの準備が終わったら、形見分けの品でも持ってさっさと退散しなくてはいけない。


(……正直、そんなに欲しいものもないっスけどね)


 アラタの部屋はつまらない。

 物欲の無かった彼の部屋はあまりに簡素で、面白みに欠けるのだ。

 精々回収する価値がありそうなものといえばパソコンのデータだが、無闇にコピーなりすると足がつきそうで怖い。

 それに、聡いアラタのことだ。真っ先に目をつけられそうなパソコンに、重要なデータを残しているとも考えにくい。


 そんなことを考えながらぼんやり部屋を眺めていると、ふと一冊の本が目に入った。

 実用的なものしか入っていない、味気ない本棚の中にあって、異質な雰囲気を漂わせる古びた子供向けの伝記。

 独立の英雄ジャック・グレイの活躍を記したその本は、以前アラタがフェイから誕生日にと貰ったものだと語っていた。

 ニュース番組を流しながら、なんの気なしにリタはその本を手にとってパラパラとページをめくりはじめる。

 よく読み込まれた本らしい。子供向けの柔らかい内容を記した文字は色褪せて薄くなり、ページは日に焼け、拙い字で注釈まで入れられている。

 何の変哲もない、暗号の痕跡もない本だ。だが、フェイとアラタの二人が愛した、かけがえのない本だ。


「かいちょー。これ、もらってもいいっスか?」


 そんな呟きと共に最後のページをめくったとき、リタは思わず眉根を寄せた。

 裏表紙に、鉛筆か何かで文字が記されている。


 DLP.


 なにかの暗号だろうか。中に書かれていた注釈と比べると、この文字だけ異様に新しく見える。


(これは、一体……)


 ネリがシャワーから戻ったことにさえ気が付かず、リタはその文字を凝視しながら考える。

 そのとき、不意に脱ぎ捨てたズボンのポケットに入れていたスマホがけたたましく鳴り響いた。

 着信だ。

 思考の邪魔をされた苛つきをなんとか抑えながら、リタはスマホを取り出す。

 と、同時にポケットから一枚の紙切れがはらりと床に落ちた。


 on't isten rime minister


 かつてフェイに手渡された、そんな暗号のような文が記された、リタにとっては何ものよりも大切な紙切れ。

 文字の面が上を向いた状態で床に落ちたそれを見て、リタの頭は天啓を受けたような衝撃に見舞われた。

 サッと血の気が引いていく。傍らで様子を見ていた、心配そうな顔をするネリにスマホを押し付け、リタは伝記の文字と見比べた。


(フェイさん……この大文字を、当て嵌めろってことですか?)


 寒さに震えていた数分前から一転、今度は額から汗の玉がこぼれ落ち、傷口が染みた。

 リタは頭の中でそれらの文字を組み合わせ、ハッと息を呑んだ。


 Don't Listen Prime minister.


 ――首相立法院総裁の言うことに、耳を傾けるな。


 この国の首相、エイブラハム・スタンフィールドが民主派と深い関わりを持っているのは、最早公然の秘密のようなものだ。


「これが、あなたの意志ですか……?」


 アラタの存命を知らせるニュース速報が入ったのは、その僅か数秒後のことだった。

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