第三十三話 いきつく先

 リタはひたすらに走っていた。

 冬の只中だと言うのに、全身から滝のような汗を流して。

 暑く、寒く、息苦しい。それでも足を止める訳には、いかなかった。


(大聖堂まで行かなくちゃ……かいちょーを、止めなきゃ……)


 あの人が誰かに殺されてしまう前に、この手で殺してあげなくては。

 今のリタの頭には、それだけが存在していた。


 そのとき、視界の端から、車が突っ込んでくるのが見えた。

 真っ直ぐ前しか見えていなかった自分が、赤信号の真ん中にいることに気づいたときには、もう何もかもが遅かった。

 凄まじい衝撃が全身を駆け巡り、リタの体を弾き飛ばす。

 なんとか本能的に路面に受け身を取って叩きつけられることを回避したものの、まともに車の体当たりを受けた右半身が酷く痛む。

 ヒビで済めば上々。骨折ぐらいしていてもおかしくないことは、容易に想像ができた。


(それでも……)


 立ち止まる訳には到底いかない。

 軋む骨身にムチを打ち、リタはゆっくりと立ち上がると、右腕を抱え、足を引きずりながら聖堂の方へ歩き始めた。

 野次馬たちの姿も、運悪く飛び出してきたリタを跳ねてしまった運転手や車の姿も、彼女の視界には映らない。

 ボロボロに破けた服も、何処かへ飛んでいった鞄も、衝突した際に出来た額の傷から流れる血でさえ、今のリタには気にならなかった。


 ただ、体はもう限界だった。

 横断歩道から十数歩歩いたところで、リタはその場に崩れ落ちた。

 足がまともに動かない。痛みの薄い左手だけではこの体を前へは押し出せない。

 自分だけでは、もうここまでしか出来ないようだと悟るのに、それほど時間は要らなかった。

 悔しさから、視界がじわじわ滲んでくる。

 己の無力さに腹が立つ。

 ここまで来て何もできない、何もなせない自分が情けなくて、仕方が無かった。


 そんなとき、ここにいるはずの無い人物の声が聞こえてきた。


「リタ、大丈夫か?」


 アラタでもない、ジョンでもない。親しい男の低い声。

 顔を上げたリタは、思わず目を見開いた。


「……ネリ、お前」

「副会長から連絡あって、病院抜けてきた。取り敢えず乗れよ。大聖堂、行くんだろ?」


 入院していたはずのネリが、オートバイに乗ってリタに手を差し伸べた。


「ありがとう……お願い!」


 リタはその手をしっかり取ると、バイクの後ろにまたがった。

 冬晴れのセントラルシティの幹線道路。二人を乗せたオートバイは、フルスロットルで大聖堂に向けて発進した。



 *



 最後に残ったヴァルトシュタインを射殺し終え、アラタは肩で息をしながら脱力した。


「終わった……終わった……全部終わった……」


 はじめに総統が撃たれたの見て、我先に逃れようとしたロックとウィルソンはそれぞれ出口の付近に倒れている。

 三人が死んだのを見て油断しきったヴァルトシュタインの後頭部を撃ち抜くのに、さしたる苦労は無かった。


 赤黒い血溜まりが、神聖な聖堂の床に広がっていく。

 この場で生き残っているのはアラタと、祭壇の後ろで縮こまって震えている司祭の二人だけ。

 立て続けに四発も発砲したと言うのに、外の警備兵が突入してくる様子は一向にない。


大佐スタンフィールドめ……最初から…………こうなる、ことが……わかってたな……は、は……」


 不意に長椅子の方から声がして、アラタはハッと振り返る。

 背後から左胸目掛けて撃ち抜いた筈のアダムス総統は、血まみれになりながら苦笑いしてアラタをじっと見つめていた。


「閣下……」

「大方……君は、少佐ドナルドに…………唆され、でも……したん、だろ?」


 急いで側まで駆け寄るアラタに、息も絶え絶えのアダムスは続ける。


「……ジャック、グレイに……憧れ、たか?」

「いいえ。閣下、俺は大切な人の意志を成し遂げたかった。それだけです」

「…………なら、いきなさい。小さな隼ケストレル……いき、なさい…………天使、の……加護が、あらんこと、を……」


 独裁者はそう言って白い歯を見せ、事切れた。


 まばゆい陽光が、ステンドグラス越しに二人を照らす。

 膝を屈して赦しを請う裏切り者の黄色い衣が、やけに鮮やかに輝いている。

 その光があまりに眩しくて、アラタは咄嗟に目を背けると、足早に出口へ向かって歩みを進める。


 気が動転していた。光に目も眩んでいる。

 だからだろうか、出口の前に横たわるロック局長の亡骸に足を引っ掛けつんのめり、血溜まりの中に両手をついて転んだのは。

 急速に温もりを失っていく赤黒い血が、着ていたスーツにべっとりと付着し重く濡れる。


「くっそ……」


 手のひらからこぼれ落ちた拳銃を拾おうと手を伸ばしたとき、アラタははじめて自分の手が赤い血潮で染まっていることに気がついた。

 ステンドグラスの明かりに反射し、生血がてらてらと金属のような光を帯びる。

 それがまるで鏡か何かのように思えて、アラタはじっと魅入ってしまった。

 人は死の直前、己の手を仕切りに見つめることがあるという。


(もしかしたら、この向こうに先輩が……)


 だが、幾ら凝視してもなにも見えない。

 目に映るのは、赤黒く汚れた手のひらだけ。

 大勢の人を殺めた、穢らわしいその手が己のものであると強固に主張するだけだ。

 そうしていると、熱っぽく興奮していた頭が次第に冷静さを取り戻してくる。


 途端に、アラタは自分が酷く恐ろしいことを、取り返しのつかないことをしてしまったことに気がついて、心の底から恐怖した。

 人殺しに慣れてしまった自分が、殺人を肯定するのに愛した人を使った自分の心が、怖かった。


「いかなきゃ……! いかなくちゃならん……ここにいちゃ、駄目だ……」


 すっかり脱力してしまった四肢に力を込めて、滑る血溜まりでなんとか踏ん張り、アラタは銃すら拾わず立ち上がって出口へと駆け出した。

 自分を照らす光が怖い。自分の弱さと醜さを浮き彫りにする光が怖い。

 そんな光から逃げ出すように、アラタは聖堂の扉を身体で押し開け外へと飛び出し――その白昼の眩さに目を覆った。


 薄っすらと光の中に浮かぶ、拳銃をこちらへ向けるシルエット達。

 その影の群れの中心に、ボロボロの服を着たポニーテールの少女がいた。


(リタ……)


 視界が色彩を取り戻す。

 自分を包囲する警官隊がはっきり見える。


(いかなくては)


 でも、どこへ?

 アラタには、もう何も分からなかった。


「かいちょー!!」


 少女の声は、続く発砲音にかき消されて霧散した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る