第三話 五大湖の天使

「ワニってね、塩焼きが一番美味いんだよ?」


 それが、『五大湖の天使』と呼ばれる伝説の少女スパイ――フェイ・リーが、アラタに放った最初の一言だった。


 高校初日のレクリエーションを終えたアラタは、同じ高校に先んじて潜伏している先輩に顔合わせの挨拶をするため、事前に通達されていた待ち合わせ場所に足を運んだ。

 待ち合わせ場所は広い校内の隅にある、サトウカエデの木々に覆われた小さな池のある広場だった。

 人の気配はほとんどない。古びたベンチが一つあるだけの、少し寂しげな空間だ。

 用務のおじさんも滅多にここには来ないらしい。地面に落ちた紅色の葉が、レッドカーペットのようになっている。

 胸が空くような秋晴れの午後。

 そんな人気のない寂れた広場の中心で、彼女は地面にかがみ込み、小脇にボロボロの伝記を抱え、白昼堂々ガスバーナーと金網を用いて自分の顔よりも大きなワニのステーキを焼いていた。

 薄香色をしたボブカットヘアーのてっぺんに、カエデの葉が乗っている。

 フェイはそんな事を気にする素振りすら見せず、ワニステーキが焼き上がるその時を、赤縁眼鏡の奥に潜む双眸をキラキラと輝かせながら待っていた。


「……あんた、何してるんだ?」

「ワニ焼いてる。キミも食べるだろ?」


 バーナーの火に炙られて、ワニ肉から肉汁がふつふつと湧き出している。フェイは今にもよだれを垂らしそうな顔で、そのさまを食い入るように見つめている。

 もはや、アラタのことすら眼中には無さそうだった。


「いや、そうじゃなくて――」

暗号名コードネームケストレル。戸籍名アラタ・L・シラミネ。年齢は一個下の満十五歳と十ヶ月。人種は東洋極東系。

 これが昨日学園と統一総統府のサーバーをハックして取ってきたキミの資料の内容だけど、違った? ……あっ、もしかして載ってなかっただけでワニアレルギーだったり?」


 そう言って、フェイは初めてアラタの方に顔を向け、不思議そうに首をかしげてみせる。

 アラタは言葉を失った。

 国家運営の中枢たる統一総統府と、その直轄機関たる『学園』のサーバーセキュリティは、世界トップレベルの厳重さを誇る。

 それを彼女は、こともなげにハックしデータを盗み出したと言い放って見せたのだ。


(これが、学園の生徒会長サマかよ……)


 柔らかな秋の木漏れ日に照らされながら、フェイは優しげな微笑みを浮かべる。その様子はまさに、翼の見えない天使のように今のアラタには思えた。

 気がつけばアラタは、彼女から目をそらすことが出来なくなっていた。


 しばらく膠着こうちゃくが続いた後、アラタはようやく生唾を飲み下すと、一歩踏み出しなけなしの声を絞り出した。


「アレルギーは無い、です。どうぞよろしく、フェイ先輩」

「うん! よろしくね、アラタ君!」


 アラタの差し出す手を、フェイは弾けんばかりの笑顔で力強く受け取った。

 柔らかく、温かで、それでもどこかたくましく、ほんの少しワニ臭い。そんな、優しい手のひらだった。



 *



「さて、それじゃ早速任務をやろうか。キミの実力、見せておくれよ〜?」


 ワニステーキを二人で平らげ一息ついた頃、唐突にフェイはそう言った。

 あまりに突然のことで言葉を失うアラタに、フェイは「あれ?」と小首をかしげる。


「先に『学園』から連絡なかった? 新入生は初日に先任に実力を示す為の任務を実施する、って」

「今年度は諸般の事情によって延期、とは連絡がありましたね」

「……マジか。結構重めのヤツ準備しちゃったんだけど」


「どうしよう」と頭を抱えるフェイだったが、しばらくしてなにか良い方法でも思いついたのかパッと顔を上げ、アラタの方を見てにやりと笑った。


「ま、改ざんすりゃいっか」


 そう言うや否や、フェイはアラタに有無を言わさず任務の概要を伝達し、さっさと学校を出て現場のセントラルシティ港湾倉庫に連れ出した。



 さざ波の音と潮の香りに満ちる港湾倉庫の一角は、国内最大規模の貿易港とは思えないほどに静まり返っていた。

 人の気配はほとんどなく、直近数年は使われた形跡のない、赤錆の目立つ倉庫もいくつかある。

 それでも地面に注射器やら植物片やらがところどころに散らばっているのを見るに、夜中はある程度賑わっているようだ。


「こちら“ケストレル”、目的のバンを発見。どうぞ」


 そんな人気の無い倉庫群の物陰に身を隠しながら、アラタは無線機にそう声を吹き込み写真を撮影した。

 視線の先五百メートル向こうに停車する黒い無人のバンが、今回の任務のターゲットになる麻薬密売組織の手掛かりだ。

 この車の後を尾行して本拠の場所を発見できれば、任務はクリアとなる。


『こちら“スワン”了解。こっちからもバンと君を確認したよ。それじゃ、こいつが親玉のところまで案内してくれるのを待とうか』

ウィルコ了解


 アラタは物陰深くに身を潜めると、亀のようにじっと動きを止めた。

 この静けさだ。どれだけ気を使って歩いたとしても、人間の足音は際立って聞こえる。


(そういえば、フェイ先輩はどこから見ているんだろうか)


 バンとアラタ、どちらも確認できる位置に陣取っているのだろうが、高層物のない入り組んだこの倉庫群でその位置取りは困難を極めるだろう。

 それをこともなげにやってみせるとは、“五大湖の天使”の異名は伊達ではない。

 アラタは頭の中で自らの足となるバイクの停車地点を確認し、そのときを待った。


 三時間後、アラタはピクリと肩を震わせた。

 アスファルトの地面を踏む革靴の音が聞こえてくる。

 その音は次第に明瞭になり、もう薄暗くなり始めた港湾倉庫に響きながら、徐々に車に近づいていく。

 やがて倉庫と倉庫の間から姿を表した人影はあたりを警戒しながら車に乗り込み、エンジンを掛けて発進した。


「こちら“ケストレル”、目標が発進。追跡する」


 無線に応答は無い。アラタは急いでバイクに駆け寄りまたがると、市街地へ出ていくバンの後を追った。



 *



 夜の市街地を、十台分以上の車間距離を開けてアラタはバンに追走する。

 フェイへの無線に、相変わらず応答は無い。

 郊外に出ていくバンに見つからぬよう速度を調整しつつ、アラタは眉間にシワを寄せた。


(一人でやって見せろ、と言うことか)


 自分がつけられている様子は無いが、何かしらの方法でこちらの動向を確認しているのはおそらく確かだ。

 別段活躍して成り上がりたいという野心がある訳では無い。ただ、命じられたことは最大限こなす。

 それが自分の生まれ、生きている意味だとアラタは思っていた。


 間もなくバンは、郊外の森にある古びた廃屋の前で停車した。

 アラタも離れたところにバイクを置き、木々に紛れて偵察しながら撮影する。

 どうやらここが本丸らしい。

 五頭の屈強な警備犬に、ライフルで武装した男が十二人、森や廃屋の付近を囲うように警備している。

 重武装のに守られた廃屋には、先ほどの黒いバンに乗っていた男が一人と、親玉らしい大男とその取り巻きが六人ほど詰めていた。


(あとは帰って提出するだけだな)


 十分な量の情報が得られたアラタは、木陰に潜みながらそう安堵のため息を漏らした。

 初任務はなんとかこなせたようだ、と、胸をなでおろした直後、夜の森に警備犬のけたたましい鳴き声が響き渡った。


「おい、バイクがあったぞ! 侵入者だ!」


 続いて野太い男の声が聞こえて来ると、静かな森は一気に怒号と緊張感に包まれた。

 そんな状況下に追い込まれてから、アラタはようやく停車したバイクにカモフラージュの迷彩布の被せ忘れに気がついた。


(くそったれ……!)


 もはや取り返しがつかないのは明白だ。

 森の出口に向かって警備を掻い潜りながら走るものの、月明かりすらない夜の森に方向感覚が狂わされる。

 呼吸を荒げながらようやく開けた場所に出た。

 だが、そこが森の出口とは真逆の廃屋だったと気づくのに、そう時間は掛からなかった。

 眼の前に現れた黒いバンが、まるで死刑を宣告しているかのようにアラタには思えた。


「いたぞ!!」


 間もなく警備兵の怒声が響き、ライフルを突きつけられる。

 こうなった時の対処法は、もうずいぶん昔から教えられていた。

 アラタは素早くカメラを叩き壊して腰のホルスターから拳銃を抜くと、相手が引き金を引くより早く銃口を咥えて自決を図る。


(締まらねぇ最期だな、まったく)


 内心ヘマをやらかした間抜けな自分にため息をつき、アラタは引き金を思い切り引く。

 その、直後のことだった。


「諦めるにはまだ早いぜ、コーハイ君!」


 バンの中から、そんな聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 瞬間、森の廃屋はマズルフラッシュ硝煙反応と機関銃の金切り声、そして男達の悲鳴に満ち溢れた。


 今何をすべきか分からぬほど愚かではない。

 アラタは口から銃を離してその場に片膝を付き、突然のことに困惑し立ち尽くしている男達の膝や肩を撃ち抜き、肉薄してその意識を刈り取っていく。

 機関銃が全ての弾丸を吐き出し終わり、あたりに静けさが戻ってきたのは、僅か五分後のことだった。


「結果発表ー!!」


 そんな軽快な声を上げながら、フェイは穴だらけになったバンのドアを蹴り開けると、チェーンガンを抱えてアラタの方へ歩み寄る。

 汗まみれ泥だらけのアラタと違い、その表情はずいぶん涼しげに見えた。

 アラタはその場に正座すると、項垂れてため息を付いた。結果など、言われずともわかっている。


「失敗、でしょう?」

「と、思うじゃろ?」

「え?」


 予想外の返答に、アラタは思わず顔を上げる。

 そこには、相変わらず楽しそうな表情を浮かべたフェイがうんうんと大きく頷き、チェーンガンを地面に置いて腕組みしながら立っていた。


「結果は百点満点中の……ま、七十二点ぐらいってとこかな? 私の私見だけど」

「それって高いんですか?」

「合格ラインは五十点です! 全然ヨユーの合格だよ。いやぁ、めでたいね! 私のときより二点も高い!」


 ドンドンパフパフと口で言いながら拍手でそうフェイに祝われても、アラタは喜びや安堵より困惑が勝った。

 明らかなケアレスミスが生んだ窮地だ。その上本来なら情報を上に提出して正規ルートでの確保をするはずだった。

 銃火器はただではない。経済的なダメージも相当にあることは一目瞭然。充分失敗の範疇のように思われた。それを、なぜ……


「納得いってない顔だね? 責任感があってよろしい! でもあんまり自分に厳しすぎるのも良くないぜ?」

「……それでも、納得いきません。理由を教えて下さい」


 アラタがそう問いかけると、フェイは顎に手をやり少し考える素振りを見せ、言った。


「確かに、確認を怠ったのはマイナスだね。それと逃走時に自分の居場所を見失ったのも痛かったね。そこはよくよく気をつけるよーに。

 でもね、その後の対応が良かった。キミ、自決を図ったろ?」


 アラタは何も言わずに頷いた。

 フェイは満足そうに微笑んで続ける。


「咄嗟にああいう対応はね、やっぱりどれだけ訓練積んでても出来ないもんだよ。だって死にたくないもん。

 でも、それをしてでも何かを守ろうとしたってのは大きいね。自己犠牲の精神はこの仕事やる上で最重要だから。

 それからもう一個、銃撃戦でわざと急所を外して撃ったね?」

「はい。あの勢いだと皆殺しにしてしまいそうだったので、何人か情報源を残しておかないと困るな、と」


 実際今も、廃屋の玄関付近や森の茂みの中で這いつくばっている男達の姿が見える。

 もう戦闘も逃走も出来ないだろうが、致命傷を受けているわけでもない。

 フェイは嬉しそうにニッと笑うと、サムズアップして見せた。


「あの銃撃戦下で冷静にそう考えられるのは非常にグッド! ちなみにアラタ君、人を殺したことは?」


 アラタは首を横に振る。


「いえ、まだ」

「よし、ならこれからは出来るだけ殺さないようにしなさい。

 人は死ぬと必ず痕跡が残る。人殺しはリスキーだし、何より癖がついちゃうからね。私みたいになっちゃ駄目だぞ?」


 そんな会話をしていると、森の外からパトカーのサイレンが聞こえてきた。

 どうやら先んじてフェイが通報していたようだ。

 フェイは猫のように大きく伸びをすると、満面の笑みでアラタに手を差し伸べた。


「さ、行こうか! 今日は我が家で入学祝いのパーティーだ!!」


 サイレンの音が大きくなる。木々の隙間から、パトランプの光が漏れ出して来る。

 アラタは差し伸べられた手を取ると、立ち上がって二人並んで森の外へ足を向けた。


「ちなみにアラタ君、七面鳥アレルギーとかある?」

「検査したことないんで知りません」


 忘れられぬ一日は、まだもう少しだけ続いた。



 *



「着いたな」

「……ちょっと酔ったかもっス」


 二人がバスを降りる頃には、空は既に赤い夕焼けを通り越し、薄っすらと暗くなり始めていた。

 青い顔をしてバス停のベンチに腰を下ろしたリタの背をさすりながら、アラタは西の空へと顔を向けた。

 太陽の背を追うように沈みゆく一番星は、街明かりに霞むことなく黄金色に輝いている。

 今日は新月。閑散とした都市郊外のこの場所は、夜には漆黒の宵闇に包まれるだろう。


(あの日もそんなでしたね、先輩)


 リタが落ち着くまでしばらくの間、アラタはその明星が沈みゆくその様をじっと眺めつつ、初任務の夜のことを回顧していた。

 あの日フェイに抱いた頼もしさや憧れにも似た感情は、今になってもありありと思い出すことが出来る。

 この後輩は、かつて自分自身がそうだったように、アラタにそんな感情をほんの僅かでも抱いてくれているのだろうか。


「かいちょー、出るかも……」

「ちょ、待てって! 袋あるから!」


 カバンの中からビニール袋を出して広げてやりながら、アラタはそんなこと万に一つも無いだろうなと、心の中で嘆息した。

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