第三章 刺客達
第十四話 病室
ブリザードが吹き荒ぶ厳寒の雪原を、アラタはひたすら南へ歩いていた。
眼前を、
「寒いね、アラタ君」
不意に、耳元で誰かがそう囁いた。懐かしい声だ。振り返らずとも、声の主が誰かわかる。
アラタは寒さに震える唇をなんとか動かして、それに返事した。
「死人が喋るもんじゃ無いですよ、先輩。中間線まで出たら約束通り水葬してあげますから、大人しくしててください」
「はぁーい」
アラタに背負われているフェイは、つまらなさそうにそう言った。
眉間にはまだ目新しい、赤黒い
「ねぇアラタ君?」
「なんです?」
アラタは少し苛立たしげにそう返す。
防寒服から露出している顔面が、あまりの寒さで痛みを帯びている。唇も樹皮のようにがさついていた。意識も、微かに
死人のフェイは、恥ずかしげに呟いた。
「お腹空いちゃった」
「アンタはゾンビですか?」
「だとしたら私は、すぐにでも君の首筋を噛み切らなくちゃいけないね?」
「はいはいわかりましたよ。ちょっと待ってください……」
アラタとて、まだ死にたくはない。帰ったらやりたいことが山ほどあるのだ。
フェイといつも通り生徒会室で駄弁り、フェイと帰りしなに喫茶店でスイーツを楽しみ、フェイとゲームセンターに行き、寝る前にフェイと他愛も無い電話をする。
そんな、いつもどおりの日々をもう一度やり直す為に、アラタはフェイを殺した。
その矛盾に、この男は今気づいてはいないが。
アラタは前に抱えたバックパックから携帯糧食を取り出すと、後ろのフェイに手渡した。
「やった! アラタ君ありがとぉー!」
食料を手に入れたフェイは、嬉々としてアラタに抱き着き、頬に軽くキスをした。
額からこぼれた血がアラタのこめかみにベッタリとつく。それを気にする余裕は、今のアラタには無かった。
先程から、左腕が妙に熱い様な気がしている。熱した火掻き棒を突き刺したような熱さと痛み。だが、それに反して指先は凍えるように冷たい。
朦朧とする意識。足取りも重く、時折ふらつき始めた頃、アラタはようやく目的地の五大湖北岸にたどり着いた。ここを超えれば、アルトベルゼだ。
眼の前には、来たときに隠していたゴムボートが転がっている。
アラタはボートに荷物とフェイを乗せると、エンジンを掛けて出発した。あとはキルグーシの沿岸警備兵に見つからぬよう努めるだけだ。
「ひぇぇ……風寒いねぇ……」
「先輩、眉間から血が漏れてますよ」
「ありゃ? あ、ホントだ」
フェイは眉間を抑え、なんとか出血を止めようとする。
アラタはやれやれとため息をつくと、荷物の中からガーゼと包帯を取り出し、丁寧に患部を止血した。
もう、アルトベルゼとキルグーシを隔てる五大湖中間線が近い。アラタは周囲を見渡し、脅威が少ないことを確認すると、速度を次第に緩めていった。
「もうそろそろ、ですね」
「だね。もうお別れかぁ……ちょっぴり寂しいかも?」
「……俺もです」
そう言って、二人は笑った。
中間線を示すオレンジのブイが幾つも並び、ゴムボートがその間を静かに通過する。
中間線を越えた。
二人は目を見合わせると、同時に頷いた。
「じゃあね、アラタ君」
「ええ、また。フェイ先輩」
瞬間、フェイはアラタを思い切り湖面へ向かって突き飛ばした。
全身が冷たい湖水に包まれる。
アラタが夢から覚める直前、最後に目にしたのは、揺らめく水面の向こうで寂しげに微笑む、最愛のフェイの顔だった。
*
「お、やっと帰ってきたっスね。かいちょー」
気がつくと、眼の前には嬉しそうなリタの顔があった。
状況的に、ここが病室であろうことはすぐに分かる。
締め切られたカーテンの隙間から見える外の景色は暗い。もう夜なのだろう。
「閣下と、ネリは?」
「閣下はかいちょーが体張ったお陰で無傷っス。ただ、ネリは……」
そう言葉を濁したリタだったが、やがて決意したように「今、集中治療室にいるっス」と続けた。
下手人は、どうやら見つかっていないらしい。
(大方、検討はつくけどな)
問題は、その背後関係がいまいち摑めていないことだ。まだ、動くべきときでは無い。
「俺が気を失って、どれぐらいになる?」
「きっちり四時間っスね。ちょっと待ってて下さい、今委員長呼んで来るっスから」
「……ちょっと待て」
「え?」
アラタはリタを呼び止めると、上体を起こして言った。
「ロッコとルカは今どこに?」
「委員長と一緒っスよ」
「ならその二人も呼んでくれ。それと、呼んだらその足でネリの警備を頼む」
「あぁ、なるほど……りょーかいっス」
そう言って何かを察したように頷き、リタは病室を後にする。アラタは左腕に巻かれた包帯を見て、ため息をついた。
術後すぐということもあってまだ腕に力は入り辛く、麻酔も切れて痛みがぶり返している。
万全の状態に戻るまで、荒仕事はどうも出来そうにない。
(リタに任せるしか無い、か)
現状、すぐ近くにいる存在で最も心を許せるのがリタだ。
腹芸はもう一つといった所だが、戦闘技能や相手の懐に潜り込む才能はずば抜けていると言ってもいい。
それに何より、彼女はフェイを愛している。
こちら側が下手を打ったり、道を踏み外したりしなければ、その銃口がこちらの眉間を穿つことは無い。
アラタとリタは、元々そういう関係だ。だからこそ手放しで信頼できるし、信用している。
「これも天使の思し召しかね」
一体いつになれば、あの人はあちら側へ迎え入れてくれるのだろうか。
そんなふうに思っていると、程なく呼び出した三人がやってきた。
「おはようさん。元気そうやな」
そう言って病室に入り、すぐ目の前の椅子に腰掛けるトーマスの顔色は、明らかに悪かった。
その傍らに立ち尽くす細身のロッコはどこか落ち着かなげに視線を動かし、アラタのベッドを挟んだ反対側の椅子に座ったガタイの良いルカがそれを諌める。
「ベッドが良いからな。お陰で久々にぐっすり眠れた。
ルカ、危ない役目を背負わせてすまなかった。ロッコも、きちんと指示通り動いてくれて助かったよ」
ルカの右頬には、ガーゼが一枚貼ってあった。銃撃戦の折にかすったのだろう。危険な役目を一人で負わせてしまったことに、アラタは少し申し訳無さを感じた。
「危うく死ぬかと思いましたがね。報酬、楽しみにしてますよ?」
ぺこりと会釈で済ませたロッコと違い、ルカはそう冗談交じりに笑って返す。こういうノリの良さは、中等部の頃から変わっていない。
ロッコも、付き合いは風紀委員に入ってからだが、口数が少ないだけで悪い奴でないのはよく知っている。知っているのだが……。
「アラタ、話したいことが一個ある。出来ればサシで」
「ルカとロッコも同席じゃ駄目か?」
「いや、駄目ってこと無いけど……あぁ、分かった。二人も聞いてくれ」
諦めたようにそう頭を振って、トーマスは理事長に告げられた二点――ジョン・ドゥの帰還と、ドナルド・アーヴィング理事長の退任――を、三人に打ち明けた。
「明日にも、新しい理事長が就任する予定や。スティーブ・ヴァルトシュタイン。参謀本部出身の上級将校で、『中央』にも在籍経験がある」
「それで、トーマス。お前の忠誠はどこに?」
話を聞いた一行が硬直する中、アラタは真っ先にそう言った。
ルカが生唾を飲んでアラタとトーマスを見比べる。
挙動不審なロッコは、青い顔をして固まったまま動かない。
答えないトーマスに、アラタはもう一度問う。
「どこにある。『中央』か『警備局』か『学園』か、それともドナルド理事長個人か、新しい理事長か……『セラフィムの意志』か。
さぁ、答えてくれよ。トーマス・ジャドキンズ風紀委員長?」
トーマスは深い溜め息をついて項垂れると、口を開いた。
「俺は風紀委員長や。学園の規律を守るのが、俺の仕事や」
「どんな手段を使っても?」
「当たり前や。規律を守るためなら、学園を守るためならなんだってしたる! それが俺や! アラタ、あんま俺のこと見くびんなよ?」
覚悟を決めたようにそう声を荒げて立ち上がり、アラタの胸ぐらに摑み掛かったトーマスの手を、アラタは痛む左手でしっかり握り返すと、目線を合わせて静かに問うた。
「ネリを刺したのは、誰だ?」
傍らのロッコがピクリと動く。ルカの視線が、アラタの表情に注がれた。
「……『セラフィムの意志』のメンバーや。閣下を狙った奴とは別口のな」
「嘘は、言ってないな?」
ルカが、布団の中にこっそりと拳銃を差し出した。
アラタはわざとトーマスに動きが見えるようにそれを受け取ると、安全装置を外した。
トーマスの手は、汗でしっとり濡れている。
彼がこくんと頷くまでに、一分程度の時間が経った。
「嘘やない。ホンマや」
「信じるぞ?」
「あぁ、信じてくれ。神だろうが天使だろうが、誓えるもんには全部誓う」
「……分かった」
アラタはそう呟くと手を離し、拳銃の安全装置ももとに戻した。気がつくと、トーマスの額には無数の汗玉が浮かんでいる。
「トーマス、ロッコ。今日はありがとう。報酬と詳しい話はまた後日ゆっくり話したいから、今日は一旦お開きにしよう」
「わかりました」
「……おう」
そう言って退室していく二人の背を見送って、アラタは拳銃をルカに返した。
「ありがとう」
「いえいえ……アラタさん、これからどうします?」
「取り敢えずは様子見だな。釘も刺せたし、相棒も帰ってくるしな」
アラタはそう言うや、上体を倒してベッドに仰向けに寝転がった。
真っ白な病室の天井が視界に広がる。久方ぶりの完全な休暇になりそうだ。
「ルカ、追加で一つ頼まれて欲しいことがある。リタには頼めん依頼だ」
ルカは、ニッと笑って頷いた。
「飯、奢ってくださいね」
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