第四十四話 理事長
耳が痛むほどの沈黙が、鉄筋コンクリート造の空間に広がる。
ややあって、一人の男が倒れ込む音が、こだました。
「……『学園』は、死んだんだよ。フェイ先輩と一緒にな」
よろめき、前後不覚になりながらもなんとか両足にしっかり力を込めて立つアラタは、荒い息をつきながら呟く。
仰向けに倒れたトーマスが、悔しそうに返した。
「お前には……わからんのや……『学園』にしか、居場所のない……俺らの、気持ちが……会長殿には、天才には、わからんのや……」
もう立ち上がる気力も、武器を取る力も残っていないのだろう。
トーマスはただ、切れ切れの息の中、それでもグッとアラタを親の仇のように睨みつける。
アラタは床に転がった拳銃を拾いあげると、静かに口を開いた。
「俺の居場所は、フェイ先輩の隣だった」
拳銃に新しいマガジンを差し込むと、アラタはトーマスのすぐ脇をすり抜け、さっさと部屋をあとにした。
ここに長居してやる理由はどこにもない。
ヘリのプロペラ音は、まだ聞こえてこなかった。
*
重厚そうな扉の奥に続く暗い通路を、今出せる全速力で駆け抜ける。と、思いの外すぐに出口に通じる梯子までたどり着いた。
トーマスとの一戦で傷つき痛む体に
満天の星空と、それを射抜かんばかりに地上から伸びる無数のサーチライト。建物の下には、多くの兵隊の気配があった。
「来たか、アラタ君」
屋上階の大部分を占めるヘリポート。
その中心に立っていたのは、予想通りの人物だった。
「理事長」
「……まだ、そう呼んでくれるか」
立ち上がり銃口を向けたアラタに、スーツのポケットに両手を突っ込んだまま、ドナルドは小さく微笑む。
ヘリの姿は、どこにも見当たらなかった。
「連中、土壇場で怖気付いたらしい。大方アルトベルゼの民主化を望む列強諸国から圧力でもかけられたんだろう。
あるいは、
ともあれ、私の完全敗北だ。私が消えれば、クーデターを画策する軍部も、『セラフィムの意志』も、散り散りになって露と消えるだろう」
後は自由にしたまえ。そうとでも言うようにアラタの方を見据えたドナルドは、静かにその場に立ち尽くす。
銃を持つアラタの手は、震えていた。
憎い男だ。
フェイの死を仕組み、裏切り者よと囃し立てながら、裏では野望成就のため彼女の全てを利用し尽くした、いくら憎んでも足りない仇敵だ。
だが同時に、幼少の頃から慕ってきた、親のような人なのだ。
殺したい。殺さねばならないとわかっていながら、ことここに至って微かな情が邪魔をする。
冷静さを欠いている。そんな自覚が確かにあった。取り戻すには、少し時間が欲しかった。
それに、訊かなくてはならない事がある。
アラタは小さく息を吸って、口を開いた。
「あなたは、総統の座につくために、『学園』を創ったんですか? 俺達を、集めたんですか?」
全ては、この男が『学園』の設立を進言したことから始まった。
ドナルドはため息を一つつくと、天を仰いで応えた。
「……ジャック・グレイ」
「え?」
「君も知ってるだろう。この国を圧政から解き放つ為に立ち上がり、命を落として英雄となった男だ。私は昔、彼になりたかったんだ」
まるで話に追いつけない。
この男は何を言っているのかと、怪訝な顔をするアラタをまっすぐ見つめ、ドナルドは真面目な表情で続けた。
「うちの両親は愛国心にことさら篤い人らでね、子供の頃はよく寝る前に建国に携わった人々の伝記を何冊も読んでもらったよ。
その中でも一番好きだったのが、ジャック・グレイの子供向け伝記だった。
幼心に衝撃を受けたよ。他の人々は生きてアルトベルゼを作り英雄になったのに、彼だけは死ぬことで英雄となった」
話しながら、興に乗ってきたのだろう。
次第に早口になりながら、トーマスは一呼吸置いて、また口を開く。
「……憧れたよ、私は。いつか彼になりたいと思った。彼そのものに。本気だったんだ。
だがね、すぐに無理だと気付かされた。私は彼にはなれない。私の家は裕福だったし、孤児でもなければ、私は末息子だった。
ならばせめてと思って入った軍でも、気がつくと戦場に出ることの少ない上級士官になってしまってね。あのときは、流石に堪えたよ」
何がおかしいのか、不意にくっくっと喉を鳴らし、背を丸めて笑い始める。
そうしてひとしきり笑い終えたドナルドは姿勢を正すと、表情を消して、言った。
「だから、作ろうと思った。ジャック・グレイを」
その静かな響きに、アラタは全身が
「『学園』を創ったのも、国内外からあらゆる手段を講じて孤児を集めて養成したのも、全てはそのため。
スパイ学園という
足元が崩れていくような、目眩がするような衝撃。
この男、もしや……
「理事長。あなたはもしかして、総統の席には端から興味が――」
「何事にも、建前は必要だからな。
こんな計画に賛同するようなもの好きな輩を集めるよりも、総統を目指すという建前の方を使った方が効率的だった。
それに、目的はもう達せた」
最後のピースが、はまった。
刹那、拳銃を握る手の震えが止まり、力がみなぎってくるのがわかった。
「……フェイ先輩、ですか?」
「そうだ。あの子は完璧だった――元々はジョン君のスペアだったのに、予想以上のジャック・グレイぶりだったよ。
両親からもらったあの伝記を渡した甲斐があった。いまは、君が持ってるんだったか?」
ドナルドはあっさりと頷き認める。
今なら、この男を殺せる。
アラタがふとそう思ったのと、ドナルドが不敵な笑みを浮かべたのは、ほぼ同時のことだった。
「手の震えは、止まったようだね」
瞬間、夜風が凪いだ。
ドナルドはポケットから拳銃を抜き取ると、静かにアラタへ照準を向けた。
「来なさい。最後の生徒会長、アラタ・L・シラミネ」
二つの銃声が、暗い夜空に響き渡る。
もう、迷いは無かった。
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