第二十七話 聖櫃

 その日、任務から一週間ぶりに学校に帰ってきたフェイは、少し落ち込んでいるように見えた。

 何を話すにしてもうわの空で、丸一日心ここにあらずといった、普段の彼女からは想像もつかない隙だらけの様子だった。

 その理由は、アラタもよく知っている。

 先日、任務を行っていた『学園』高等二年の学生六名が殉職した。

 生存者の報告によると、キルグーシでの対外工作任務中にクレバスを踏み抜き、そのまま谷底に消えたそうだ。

 そのメンバーの中には、フェイが寮生活を共にした相棒も含まれていた。


「……ジョン君とは、最近連絡取ってる?」


 生徒会室の定位置に浅く腰を下ろし、ぼうっと天井を眺めていたフェイが不意にそう口を開く。

 彼女の背後にある窓はカーテンが閉め切られ、その隙間からオレンジ色の夕日が差し込んでいる。


「え? ええ。月に一、二度は。近々北グルベに出るから、その前に一度会おうって約束したのが最後です」

「そっか」


 そう頷くと、フェイは寂しげに微笑んだ。


「友達は大切にしなよ?」


 ずっしりと重い鉛のようなその言葉に、アラタはただ俯くことしか出来ない。

 フェイはコーヒーに少し口をつけると、静かに呟いた。


「もし私が死んだら、死体はこの国のどこかに打ち捨ててね。砂漠でも森でも湖でも、どこでも良いから」

「……俺の目の前で死んだら、考えます」

「うん、お願いね」


 彼女がどんな表情をしていたか、俯いていたアラタには見えなかった。

 外では風が吹いている。

 閉められた窓が、ガタガタやかましい音を鳴らした。



 *



「――君が五大湖に投げ入れた直後、近くで待機していた学生が彼女をサルベージした。

 久々のご対面だろう、アラタ君」


 暗幕で閉め切られた薄暗い部屋。

 その中央に安置された、棺のような長方形の箱を見て、アラタはしばし言葉を失った。


「フェイ、先輩……」


 ようやく絞り出せた掠れ声は、吹雪き始めた外の音にかき消される。

 箱の中、強化ガラス張りの上蓋の向こうで、彼女は安らかに眠っていた。

 眉間に開けたはずの穴は痕がわからないほどに塞がれ、銃撃戦で頬をかすめたときの傷も綺麗に消されている。

 ウエディングドレスを思わせる白いレースの服を着たフェイは、そこで眠るように死んでいた。


「一流の剥製職人を秘密裏に呼び出して、彼女の姿を永久に保存できるよう施してもらった。

 棺桶も、温度や湿度、無菌状態を完璧に保てるようコンピューターで管理してある」


 アラタは魅入られるように眠るフェイの顔を覗き込み、不意に思い出したように壁際に立つトーマスを見た。

 トーマスはすぐさま目を合わせぬよう顔をそらし、気まずそうに眉根を寄せる。


 知らぬ間にアラタは歯を食いしばり、握り拳に力を込めていたらしい。奥歯や歯茎がじんじんと痛み、拳からは赤い血が滲んでいた。

 そんなことに気付きもせず、フェイの亡骸を見つめたままドナルドは言う。


「我々『セラフィムの意志』は、これを“聖櫃アーク”と呼んでいる。

 天使の不朽体が収まった神聖な棺。我らの正統性を担保し、守護する聖遺物。

 国に報い、国に殉じたその姿を後世に残す、伝説の生きた証そのものだ」


 トーマス以外の部屋を囲う四、五名のメンバー達が、一斉に真面目な顔でうんうんと頷く。

 フェイを見下ろすドナルドの横顔も、何処か誇らしげだ。


(何が意志だ……何が……)


 出来ることなら、ここにいる全員を今すぐ撃ち殺してやりたかった。

 自分達が神聖だ何だと崇め奉るこの箱の前で、汚い生血をぶちまけながら虫けらのようにのたうち回る様を見下ろしてやりたかった。

 それが出来るだけの実力は、今目の前で眠る剥製の彼女につけてもらっている。

 問題は、拳銃を奪われていること。そして自分が激情に駆られて冷静な判断を下せそうにない自覚があることだけだった。


「急速な民主主義の伝播は、国民を振り回し国を混乱に導いてしまう。

 歴史の授業で習ったろう? 閣下がなぜクーデターを起こさざるを得なかったか」


 そう話を切り出すドナルドに、アラタは形だけ頷いて返す。


 前政権は、市民の民主革命によって誕生した。

 総統を象徴として推戴し、実権を首相たる立法院総裁が握る議会制民主主義政権だったが、その運営はお世辞にも好調とは言えなかった。

 選挙の度に明るみに出る議員たちの汚職、スキャンダル、買収。

 気に入らない法案は札束を並べて否決させ、政権でのし上がる為に嘘偽りをでっち上げてライバルを失脚させ、親族友人を要職につけて身内で富を独占する。

 賄賂談合は当たり前、ハニートラップはお手の物の腐敗した政治に振り回された国民が愛想を尽かし、経済そっちのけでストライキやデモを頻発させるのに、そう時間は掛からなかった。


「国防や発展など二の次で国民をだまくらかし、私利私欲を満たす輩に独占された政治を、閣下があるべき姿に正した。

 それが、三十年前のクーデターだ。

 私には、そのあるべき姿を百年後も維持し続ける義務がある。散っていった多くの者達……そして、フェイ君の為に、この体制を維持する義務が」

「それが、工作員達による政権の再掌握ですか?」

「そうだ」


 ドナルドは、あっさりとそう言い切った。


「閣下は長く独裁し過ぎた。閣下の周りには最早政治経験の無い、私欲にまみれた無能ばかりがのさばっている。

 そんなバカ共の足の引っ張り合いに巻き込まれ、多くの人的損失が出た。

 現下、有能無能に関わらず工作員は消耗品だ。これではなんのためにクーデターを成し遂げたか分からん。

 ……だから、大掃除をする必要がある。政権発足直後の、フレッシュな状態に戻す為に」



 そこまで話を聞いて、アラタはようやくこの男が自分に何をさせたいか分かった。

 アラタはその場に膝をつき、両手を棺の上に乗せる。

 手のひらの熱で、冷たいガラスの蓋が曇る。

 その表面に映る己の虚ろな瞳を見て、アラタは吸い込まれそうな心地になった。

 いっそのこと本当に吸い込んでくれれば、何もかも忘れて楽になれるのに……。


「閣下を、諸共殺せと命じられますか」


 ドナルドは静かに頷くと、アラタの方にポンと手を置き、他の者達と共に部屋を去った。

 嫌とは言わせない。だが、考える暇はやろう。そんな無言の冷酷無慈悲な温情が、薄暗い部屋にこだましている。


(あいつらは、敵だな)


 政権の、国家の、そしてフェイの、敵だ。


「……フェイ先輩。そこ、息苦しいでしょ?」


 アラタの心中は、ここに決した。

 もう、後戻りは出来そうになかった。

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