第42話 幸せになってほしい

 ジルがお風呂に入った後、続けてリリアの入浴の時間となった。

 ちゃぽん……と、バスルームに湯音を響く。


「不思議だな……」


 湯船に浸りながら、リリアはぽつりと呟いた。


 一昨日までひとりだった自分が、誰かと一緒に暮らしている。

 それはリリアの人生にとって初めてのことだった。


「私、誰かと一緒の方が、良いみたいね……」


 どこか寂しげに目を細めてリリアは言う。


 まだ一日しか経っていないが、ジルとの生活はとても新鮮で、冷え切っていた心が溶けていくような温かさがあった。


 一人では味気ないご飯やお散歩も、誰かと一緒だとこんなにも楽しいのかと改めて思った。


 ジルの、濁ったブルーの瞳を思い返しながらリリアは呟く。


「ジル君には、幸せになってほしいな……」


 きっと、今まで辛い思いをしていたのだろうから。

 ジルとは昨日会ったばかりのはずなのに、そう思わずにはいられないリリアであった。


「それにしても、こんなに良い子だとは思わなかったわ……」


 ジルを買ったのは半ば勢いのことだった。

 ジルが家に来たいと言った時、リリアの中で彼との長期的な生活のプランがあるわけではなかった。


 もし手のつけられないような子だったらと、心配が無かったいえば嘘になるが、杞憂だった。


 ジルはとても良い子だった。

 リリアが2億という大金を支払っているから良い子にしているという部分はあるかもしれない。


 しかし少なくとも、リリアから見たジルからは悪意や害意といった負の感情は伺えない。


 手がかからなすぎて、逆に怖いくらいだった。


「ジル君は、一体どんな経緯で……」


 ふと、リリアはそんなことが気になってしまう。


 ただの直感でしかないが、昨日今日で、ジルはただの奴隷じゃないのではとリリアは思うようになっていた。


 奴隷は基本的に読み書きが出来ないし、言葉のやりとりもおぼつかないケースが多いとリリアの少ない奴隷の知識の中にある。


 初めて会った当初から、ジルはちゃんとコミュニケーションが出来ていたし、加えて食事の時の作法や礼儀もしっかりしている。

 

 しっかりと教育を受けていることは明白だったが、それが奴隷の前に受けたものなのか、奴隷生活の中でなんらかの目的で習得されたものなのかは、わからない。


 一体どのような経緯があって奴隷になっていたのか知りたいと思ったが。


「今は、その時じゃないわね……」


 きっとジル自身も話したくない内容だろう。

 今はただ生活に慣れてもらって、お互いに信頼関係を築く時だとリリアは判断した。


◇◇◇


 色々と考え事をしていたら、すっかりと長風呂になってしまった。

 ほかほかと湯気を纏いながら、リリアはリビングに戻ってくる。


「お待たせー」


 リリアが言うも、返ってくる言葉はない。

 それどころか、ジルの姿も見当たらない。


「あれ、ジルく……」


 大きめの声で呼ぼうとして、飲み込む。

 ソファに横たわって、すうすうと寝息を立てるジルを見つけたから。


「あらら……まあ、今日も一日いろいろ動き回ったからね……」


 昨日と同じく、ソファで寝落ちてしまったジルを見て、リリアは微笑ましげに頬を緩ませる。

 例によって、このままソファで寝かせるわけにもいかないので。


「よいしょっと……」


 なるべく起こさないように、リリアはジルを抱き抱える。

 

 細身のジルは相変わらず軽かったが……気のせいか、昨日よりもほんの少しだけ重みがあるように感じた。


 二階に上がり、ジルを寝室へと運ぶ。

 ベッドに横たえ、布団を被せた。


 ジルは眠りが深いタイプなのか、一向に目を覚ます様子はなかった。


「おやすみ、ジル」


 小さく呟き、灯りを消して部屋を出ようとしたその時。


「お母、さま……」


 か細い声が、静まり返った寝室に響く。

 どこか深い寂寥を纏った声。


 そして、リリアの袖をきゅ……と掴む弱々しい感触。


 はっとしてジルを見る。


 行かないでと懇願するように、リリアの袖へと伸びた細い腕。

 固く閉じられた目尻に透明な雫が滲んでいて、肩は震えている。

 

 そんなジルを見て、リリアは床に足が張り付いたように動けなくなった。

 胸に、裂かれるような痛みが走る。


 気がつくと、リリアはジルの布団に潜り込んでいた。


 そして、小さな身体を抱き寄せる。

 怯えるように震える背中を、優しく撫でた。


「よしよし、大丈夫……大丈夫だからね……」


 安心させるように言いながら、リリアはジルの背中を、頭を、優しく何度も撫でる。


 その姿はまるで、悪夢を見て魘される我が子を宥める母親のよう。


  しばらくして、ジルの震えは少しずつ収まっていった。

 そして、再び安らかな寝息が戻ってくる。


 表情の強張りが取れて、心なしか寝顔に安堵が浮かんでいた。


(ジル君にどんな過去があったのかはわからない、でも……)


「やっぱりジル君には、幸せになってほしいな……」


 ジルの頬に残った涙跡を見て、リリアは小さく言葉を溢す。

 そのために出来ることはなんでもしようと、強く決意するリリアであった。

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