第53話 また会えて 【ジルside】
ジルは思い出していた。
初めて、リリアという少女に出会った時のことを。
確か、月明かりも心細い深い夜のことだった。
壁が崩れかかった古びた建物に、あちこちに落書きされた壁。
地面に散らばるごみや破片、時折どこからか歪んだ笑い声や怒鳴り声が聞こえてくる。
華やかなパルケの街並みから隔絶されたように存在する貧民街。
お金も頼れる人も、生きる希望さえ失った者は大体この場所に流れ着く。
ジルも例に漏れずこの街の片隅で、壁を背に座り込んでいた。
「はあ……はあ……」
心臓が痛い。
息が苦しい。
身体に力が入らない。
頭がズキズキと痛み、自分が何故ここにいるのかも思い出せない。
思い出したくもなかった。
最後に覚えているのは、ベッドに押し倒し事に及ぼうとしてきた飼い主の、血走った両眼。
涎を垂らしながら顔を近づけてくる飼い主の腕を噛んで、頭を殴られながらも命からがら屋敷を逃げ出してきた。
そこからどうやってここまで来たのかは、わからない。
少なくともわかっていることは、このまま何もしなければ餓え死にしてしまうことくらいだろう。
でも、今はもう何も考えたくない。
目を閉じたらそのまま死ねないのかな、とすら思っていた。
この先生きていても、良いことなんて一つもないだろうから。
「なに抵抗してんだよてめえ!」
「おらっ! 大人しく殴られろや!」
突如響き渡ってきた怒声に肩が震える。
恐る恐る顔を上げる。
向こうのほうで、二人の若者が物乞いと思しき男を袋叩きにしているのが見えた。
一方的な暴力に晒される男を、ジルはぼんやりと眺める。
理不尽な暴力なんて、この街では日常茶飯事だ。
もはや胸が痛む気配もない。
せめてあの男が死なないようにと願った、その時。
「憲兵さんー! こっちです! 早く来てくださいー!」
この街には似合わない、女性の声が辺りに響く。
「げっ!? 憲兵!?」
「マジかよ! くそっ、ずらかるぞ……!!」
若い男二人が立ち去った後に、ひとりの少女がひょっこりと現れた。
美しい赤い髪を腰まで伸ばした少女。
小綺麗な格好をした可憐な少女は、やはりこの街を背景にするには浮いて見えた。
少女が男に駆け寄る。
それから少女が男に何をしていたのかは、遠目で見えなかった。
しかし男は何度も何度も少女に頭を下げ、感謝をしているようだった。
少女が男に何か親切をしている、ということはわかる。
その様子を、ジルはなんとなく眺めていた。
掃き溜めのような街の中で咲いた、一輪の親切な花から目が離せなかった。
ふと、ジルは思った。
(僕も、あんな人と出会っていたら……)
少しはマシな日々を送れたのだろうか。
「……なんて」
自虐めいた笑みを浮かべた、その時。
そばに誰かが立った気配。
「おら!!」
野太い掛け声と共に、物凄い力で身体を拘束された。
「むぐっ! むぐー……!!」
助けを呼ぼうとするも、口の周りに布を巻き付けられて言葉が出ない。
「こいつ、なかなか良い顔してるな! 高く売れるぜ!」
下卑た声が鼓膜を震わせる。
脳裏に浮かぶ、人攫いの文字。
このような貧民街で身寄りのなさそうな子供を攫って、奴隷として売り捌く。
これも、この街では何も珍しくない出来事。
自分がその標的になったのは、運がなかったとしか言いようがなかった。
「おらっ! さっさと歩け!」
あっという間に拘束されてしまった。
(たす……け……)
赤髪の少女に、ジルは必死で手を伸ばす。
しかし、少女はこちらに気づく様子はない。
「ぐずぐずするな! このノロマが!」
手も縛られてしまい、ジルは奴隷商に連れていかれるのだった。
──という経緯があったからこそ。
「待てやてめぇ!! 逃げるんじゃねえ!!」
パルケの繁華街に怒号が響き渡る。
オークションにかけられる当日。
隙を見て逃げ出して、街中を駆けていた時。
小柄な体躯、美しい赤い髪。
見覚えのある後ろ姿が目に入った瞬間、奇跡が起きたと思った。
「えっ、えっ……!?」
困惑する彼女の声を聞いて確信する。
ああ、あの人だ。
間違いなく、あの日貧民街で見た、親切な人だとジルは思った。
(この人なら、僕を……)
根拠なんてなかった。
直感めいた一縷の希望に賭けて、ジルは少女──リリアの後ろに、無我夢中で隠れたのだった。
時は戻って現在。
リリアの家に来て三日目の夜。
寝室のベッドの上。
今にも寝落ちそうなリリアに、ジルは口を開く。
「おやすみ、リリア」
そして、あの時の直感は間違ってなかったと、確信を含んだ言葉をジルは贈る。
「僕も、リリアと出会えて、ううん……また会えて、良かった」
規則正しい寝息を立て始めたリリアの隣に潜り込んで、ジルも目を閉じる。
「……今度こそおやすみ、リリア」
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