第10話 私は、生きている

 エルシーに連れられてやってきたパン屋は、病院から少し歩いたところにあった。


 淡いグリーンの看板には手書きで「こもれびベーカリー」

 どこか温かさと懐かしさを感じる、小さな木造の一軒家のお店だった。


「いらっしゃいませー」


 入店した途端、焼きたてのパンの甘い匂いがぶわっと漂ってきてリリアの胃袋がキュッと締まった。


 また盛大にお腹を鳴らしてしまい、エルシーにくすりと笑われてしまったのは言うまでもない。


 天井から吊るされたランタンの明かりが、こじんまりとした店内をゆるりと照らしている。

 

 カウンターの後ろでは年配の男性が焼き上がったパンを丁寧にラックに並べており、隣には笑顔の優しい女性が客の注文を受け付けている。


 二人は夫婦のようで、見えない絆のようなものが感じられた。 

 

「わああ、たくさんメニューがありますね、悩みます……」


 席に着き、メニュー表に目を通しながらリリアは言った。

 メニュー表もひとつひとつ手作りらしく、それぞれのパンの絵や、どんなパンなのかの説明も書かれていて、どれもとても美味しそうだった。


「ここのおすすめはクロワッサンと、チーズパンですよ」


 とエルシーが教えてくれたため、リリアはその二つを注文した。


 本音を言うとメニューに並んでるパンを全部頬張りたい気持ちに駆られたが、絶対に食べきれないしお腹を壊すだろうからとぐっと我慢をする。


 エルシーも同じものを頼んでいた。

 

「そういえば自己紹介がまだでしたね。私はリリアと言います」

 

 パンが来るまでの間、改めてリリアは言った。


「リリアさんですね。よろしくお願いします」

「あの、多分私の方が年下なので、敬語じゃなくていいですよ?」

「ああ、ごめんなさい。職業柄、つい……」


 エルシーは肩の力を抜いたような顔をして。


「じゃあ、ラフに話そうかしら。その方が仲良くなった感じがするし」

「ありがとうございます! そうして頂けると嬉しいです」

「リリアちゃんも、敬語じゃなくていいのよ?」

「わ、私は癖といいますか、年上の方には敬語抜きが苦手で……」

「ふふっ、そうなのね。ちなみに、リリアちゃんはいくつなの?」

「16です」

「16!? うそ!? 私の2個下!?」


 エルシーがギョッと目を剥き、リリアはぽかんと呆けた顔をした。


「エルシーさん、ふたつ上だったんですね。とても大人びているので、もう少し上かなと思っていました」

「そ、それはありがとう。失礼なのは承知なんだけど、随分と小柄だから、もっと年下だと思ってたわ……」


 エルシーの言葉に、リリアはギクっとした。


 確かにリリアは背が平均よりも低く小柄で、外見は実年齢よりも幼く見える。


 それは、子供の頃から充分な食事を与えられなかったことが原因……なんて口にするわけにはいかないので、リリアは「ちょっと少食で……」と、ぎこちない返答をしてしまう。


「少食どころの話じゃない気がするけど。そりゃお医者さんに怒られちゃうわ。ちゃんと食べないと!」

「ああうう……そうですよね、ごめんなさい……」

「いや、謝るようなことじゃないとは思うけど……これからはしっかりと、ご飯を食べないとね」

「それは、はい。絶対にそうしようと思っています」


 決意の篭った声でリリアは言った。


「はい、おまちどうさま。クロワッサンと、チーズパン二つずつね。毎度ありがとうね」


 二人分のお水と共に、注文したパンがやってきた。

 

「わあ……」


 思わずリリアは声を漏らしてしまう。


 バターの甘く、香ばしい香りが鼻をくすぐった。


 外側がしっかりと焼かれた大きなクロワッサンは、一つ一つの層が薄くサクサクとした食感を予感させる。

 チーズパンは、上の部分が溶けたチーズでとろりと覆われていて見るからに美味しそうだ。


 二つとも焼きたてのようで、ほかほかと湯気が立ち上っていた。


「これ、本当に食べていいんですか?」


 なんだか恐れ多い気持ちになって、リリアはエルシーに尋ねてしまう。


「えっ? う、うん、いつでもどうぞ?」

「い、いただきます……」


 恐る恐る、リリアはクロワッサンを手に取ろうとするも。


「あちっ」

「ふふっ、焼きたてだから、気をつけて」


 エルシーに言われて、リリアはふーふーしてからクロワッサンを手に取る。


 そして、クロワッサンに齧り付いた。

 サクッと小気味良い音が響く。


「……!?」


 リリアは目を見開いた。


 サクサクとした食感が口の中に広がり、次第にバターのリッチな香りが舌を包み込んでいく。

 生地の層々は細やかで、噛むたびにじゅわっとクリームのような風味が広がっていった。


 ごくんと飲み込んだ後、呟く。


「おい、しい……」

「良かった。ここのクロワッサン、本当に美味しいのよね〜」


 エルシーもクロワッサンにサクッと歯を立てて、「ん〜」と美味しそうに食べている。

 一方、リリアは飢えた子猫のようにクロワッサンをはぐはぐした。


 外側のサクサクと内側のもちもちのバランスが絶妙で、真ん中に近づくにつれてしっとりとした食感とパン生地本来の甘味が増していく。


 表面に振られた塩味もちょうどよく、バターの甘さを引き立てていた。


「美味しい。本当に、美味しい……」


 言葉を漏らしながら、リリアはクロワッサンを頬張る。


 同時に、思い出した。

 

 離れで出されていた、硬くてカビの生えたパンのことを。

 あの牢獄でマリンに踏み躙られ、黒ずんだパンのことを。


 すると、なんだか目の奥が熱くなっていて……。


「リ、リリアちゃん? どうしたの?」

「えっ……?」


 エルシーの驚いた声で、気づいた。

 

 頬を伝う湿った感触に。

 両眼から熱い雫が溢れ出していることに。

 

「えっ、あっ、これは、その……」


 慌てて指で涙を拭う。

 エルシーに心配させてはいけないと、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。


「美味しすぎて……本当に、それだけで……」


 なぜ涙が溢れてしまったのか、遅れてリリアは自覚した。


 今までロクにご飯を食べさせてもらえなかった。


 貰えるのは硬くてカビの生えたパン。

 変な匂いのするスープ。

 庭で引っこ抜いて土がついたままの雑草。


 とてもじゃないけどお腹は膨れないし、なんなら腐っていたので何度もお腹を壊した。


 だからいつもお腹が空いていて、お使いで購入した茶菓子やパンに手が伸びそうになったことも一度や二度だけじゃない。


 本当は、ちゃんと美味しいものを食べたかった。


 お腹いっぱい食べたかった。


 その願いが、ようやく叶った。

 一度死を経験して、自分の意志で逃れ着いた遠い異国の地。


 そこで口にしたクロワッサンは間違いなく、リリアが今まで味わってきたどんな食べ物よりも美味しかった。


 嬉しかった。

 そして、安心した。


 美味しいものを美味しいと感じられて、自分が今生きているという実感を得ることができて、心の底から安心した。


 やっとあの地獄から逃げられたのだと、心の底から安堵した。


 安心したらずっと張り詰めていた緊張が緩んで、思わず涙が溢れてしまったのだ。


「そ、そうなんだ……」


 困惑気味なエルシーに、リリアは「ごめんなさい……」とだけ呟く。


 取り繕う余裕もなかった。

 美味しい焼きたてのクロワッサンを通じて、ただただ、生きてる実感を噛み締めていた。


 ぽろぽろと涙を流しながら、リリアは二つ目のチーズパンにも手を伸ばすのだった。

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