第26話 テラスの男

「だ、大丈夫ですか!?」


 テラスの隅でうずくまる男の元に駆け寄り、リリアは声をかけた。


 男が力無く顔を上げ、視線が交差した途端、リリアは息を呑んだ。


 年齢は20代半ばか、後半くらいだろうか。

 ハッとするほど端正な顔立ちで、目力の強い男だった。

 

 社交の場では立っているだけで何人もの令嬢に言い寄られるであろう美丈夫だった。


 しかしそんな彼の顔色は悪く、冷や汗が溢れ出ている。

 短く切り揃えられた青みがかかった髪は乱れていた。


 大柄の体躯はパーティ用のタキシードに包まれているが、ところどころ着崩れている。


 リリアは男から、濃い酒の匂いを嗅ぎ取った。

 相当のアルコールを摂取したのだろうとリリアは察する。


 男はリリアを見るなり目を見開いたが、やがて口を抑えて。


「うぷっ……」


 お腹から魔物が迫り上がってくる気配を見せた。


「ああっ……!!」


 思わずリリアは短い悲鳴をあげた。


 以前、父フィリップが酒の飲みすぎて吐瀉物を床に撒き散らしたのを一人、片付けさせられた記憶が蘇ってくる。


 このまま床のテラスに吐くのはまずいとリリアは瞬時に判断した。


「えっと、えっと……あっ!」


 きょろきょろと辺りを見回し、タバコのマークがついたバケツを発見。

 すぐさまそれを掻っ攫って、男の前に置いた。


「ここにお願いします!」


 リリアが言うと、男はバケツをガッと両手で掴み顔を突っ込んだ。


 しばらくそうしていたが、何度もえずくだけで苦しそうにしていた。


(このままじゃ、息が詰まっちゃうかも……)


 そう思ったリリアは男の首後ろ襟を掴む。

 そして。


「ごめんなさい! ちょっと失礼します!」

「何を……うぐおっ……!?」


 男の言葉は、リリアが男の口に指を突っ込んだことによって断ち切られる。

 

 喉奥まで指を強引に突っ込むことで、ようやく男は口からバケツに虹をかけることが出来た。


 酸味のある臭いが立ち込める。


 買ったばかりのドレスやブレスレットが汚れてしまうのも厭わず、ただ楽にしてあげたいという一心で、リリアは男の口に指を突っ込み続けた。


 何回かの放流のあと、浅い息をつく男の背中をリリアは優しく摩る。


「大丈夫、ですか?」


 再度問いかけると、男は弱々しいながらも芯の通った声で返す。


「ああ、少し楽になった……」

「良かったです」


 男の言葉に、リリアは胸を撫で下ろした。


「これ、良かったら」

 

 リリアはポケットからハンカチを差し出して手渡す。


「俺のことよりも、ドレスが……」


 男が首を横に振って言った時。


「お客さま、大丈夫ですか!?」


 いつまで経ってもリリアが帰ってこないことを不審に思ったのか、先ほどのウェイターがこちらに駆けて来ていた。


「すみません! この方が、体調を崩してしまったみたいで……」


 リリアが事情を説明する。

 ウェイターは男を見るなり、言わんこっちゃないとばかりに天を仰いだ。


「ジェルド様! ボトルは開けない方が良いとあれほど……!!」


 ウェイターが男に駆け寄って言う。

 しかしすぐさまリリアに向き直って。


「お客様にはお手を煩わせてしまい、大変申し訳ございません! あとは私どもで対処しますので……」

「わ、わかりました……」


 後からやってきたウェイターに連れられ、リリアはテラスを後にした。


「待……て……」


 男は言葉を口にするも、リリアの耳には届かない。


「せめて、名前を……うぷっ……」


 また嘔吐の波がやってきたのか、男が口に手を当てる。

 それから再びバケツに虹をかけていた。

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