第45話 はじめてのことば
正直なところ、髪を切ることにリリアは乗り気じゃなかった。
店員さんにカットクロスを着せてもらっている間、リリアの頭の中では声が響き渡っていた。
──きゃははっ! お姉様、ひどい髪! ゴワゴワだし燻んでるし、腐ったパスタの方がまだマシに見えるわ!
──汚い赤色の髪なんて、穢らわしい平民の血そのものじゃない。我が娘ながら恥ずかしいわ。
幼い頃から妹や母に浴びせられてきた罵倒。
それが、リリアの自信をすっかり失わせていた。
パルケに来てからは、お風呂に入ってシャンプーで洗ったから、汚れとくすみは落ちたかもしれない。
しかし何年もかけて心に刻まれてきた否定の言葉は、未だリリアの長い髪にまとわりついていた。
燻んでいて、汚くて、穢らわしい、腐った血のような色の髪。
そんな髪を切って少し整えてもらったところで、何か劇的に変わるわけがない。
そう思いつつも、ジルと店員さんに流されるままカットが始まる。
白いカットクロスが、自分の髪によって赤く色づいていく。
チョキチョキと音が鳴るたびに、心そのものが切られているように痛みが走った。
自分の髪がどんな風に変わっていくのか見たくなくて、施術中リリアはずっと目を瞑っていた。
カット後のシャンプーも、スタイリング中もなるべく見ないようにしていた。
「出来上がりました! ささ、いかがでしょうか?」
店員さんが弾んだ声で言って、リリアは恐る恐る目を開けた。
──自分じゃない女性が、鏡に映っていた。
正確には、髪をバッサリ切ったことで雰囲気が様変わりしていた。
腰まで伸びていた髪は背中の上のあたりまでで切り揃えられている。
緩やかなウェーブが加えられていることで、髪はふんわりと軽やかになり、リリアの柔らかい雰囲気を引き立てていた。
前髪は優しくカーブしていて、くっきりとした目元や頬のラインがより際立つようになっている。
何か艶の出る液でも染み込ませたのか、店の光が当たるたびに髪が煌めいて見えた。
(確かに、雰囲気は変わった、気はする……けど……)
リリアの視線が下に落ちる。
果たしてこの髪型が、他人から見てどうなのかはさっぱりわからない。
むしろ変なままなのではないかとすら思った。
店員さんは「とってもお似合いです!」と言ってくれた。
しかしそれは、客と店員という関係ゆえに出てきた言葉だろうとリリアは思った。
「あ、ありがとうございました……」
俯いたまま、そそくさと立ち上がる。
心の中は、不安でいっぱいだった。
「リリア、おかえ……り……?」
待合スペースに戻ると、ジルがリリアを見上げて言葉を飲み込んだ。
それからぱちぱちと、目を瞬かせている。
リリアは「あは……」と、自嘲を含んだ乾いた笑みを漏らして言った。
「ごめんね。変、だよね……?」
「ううん!」
ぶんぶんと頭を振って、目を輝かせながらジルは声を張った。
「すごく綺麗!」
高揚を滲ませた言葉は、お世辞ではなく本心から紡がれたものだとすぐにわかった。
すごく綺麗。
たった6文字の言葉が、リリアの胸を打った。
人生で初めてかけられた言葉だった。
──嬉しい。
温かくて、ぴかぴかと光を帯びた感情が胸底から溢れ、身体が震える。
頭が真っ白になって、次の言葉を口にすることが出来なくなってしまった。
「どうしたの、リリア?」
急に微動だにしなくなったリリアに、ジルが怪訝そうに尋ねる。
「……ううん、なんでもないわ」
自然と、柔らかな笑みが溢れてきた。
目の奥が熱くなるのを抑えながら、整髪したばかりのジルの頭に触れる。
「ありがとう、ジル君」
なぜお礼を言われたのかわからないジルは不思議な顔で首を傾げた。
それからなんとなしに、店内に備え付けられている姿見で、もう一度自分の姿を確認する。
理容師の手によって整えられた髪。
(綺麗……かも)
さっきと比べると少しだけ、前向きに捉えることが出来た。
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