6
一瞬わけが分からなくて、叶は声がしたほうへ目を凝らす。だれもいないし、何もない。急に濡れた喪服の布越しに、冷たい風を吹き付けられたような寒気がした。
体が冷え切って、シャリ感のある濡れた喪服が素肌にこすれて気持ち悪い。髪も濡れそぼり、頭皮まで雨が染み渡っていて、早く乾いたタオルで頭を
けれど、そんな誘惑に負けてはいけない、と叶は再び歩を進める。スニーカーの中まで濡れて、歩く度にぐじゅぐじゅと靴が音を立てる。
とにかく寒くて仕方ない。
「叶、寒いでしょ? 拭いてあげるから」
母親の声が背後から追ってくる。優しくて温かな、心から大好きな母親の声だ。小さい頃、雨で濡れて帰ってきた自分を大きなタオルで拭ってくれて、お風呂に入れてくれた母だ。
でも、違う。先ほどの一夜の声で悟った。
「叶」
「叶」
「叶」
父親の声、友人、自分が知っている知人の声で、背後から叶を呼ぶ。それらは全部、本物ではない。振り返っても、きっとだれもいない。叶は耳を押さえて、そのまましゃがみ込んだ。
突然、呼び声を遮るようにスマホの着信音が鳴った。その音を聞いて、叶は心臓がすくみ上がる。あまりにも大きな音で手の中のスマホが震えながら鳴っている。慌てて、叶はスマホの画面を凝視した。
画面に知らない番号が表示されている。切ろうか切るまいか悩んだ。しかし、切ってしまえば、得体の知れない呼び声に耐えながら村まで行かねばならない。
それにこの呼び声は間違いなくみつちさんなのだ。みつちさんに答えたらおみず沼に引き込まれる、という嫌な怪談を思い出した。それ以上に、幼い頃にみつちさんに答えてしまって、美千代にお祓いしてもらったが、結局村から出されてしまったことが頭をよぎる。
幼い頃は封印がしっかりされていただろう。廃墟の道祖神も壊れていなかったと思う。けれど、今は違う。いつ、みつちさんに連れていかれてもおかしくない。
一人でここにいれば、いずれおみず沼に誘い込まれてしまうかも知れない。電話で話していれば、少なからず一人ではない気がした。
「もしもし」
通話マークをタップして、寒さに震える声で、電話に出た。
『叶さん。今どこ? 雨が降っているときに外で出たらだめだって言ったじゃないか』
一夜の声だった。まさか、電話を使ってみつちさんが話しかけてきているのかと錯覚して、
「本当に一夜さんですか?」
と訊ねてしまった。
『……みつちさんに答えたの?』
言い当てられた叶は泣きたくなった。菟上家から逃げられない絶望感が体の内側から湧き上がってくる。
「答えました」
『わかった。すぐにそこに行くから、どの辺りにいるか場所を教えて』
「雨が降ってるのに」
どうしようもない状況だと分かっていたが、自分の為に危ない橋を渡ろうとしている一夜が信じられなかった。
「来たら、一夜さんも呼ばれますよ」
『それは運じゃない? そうならないように気をつけるよ』
叶が告げた場所は、悲しくなるくらい屋敷から近い場所だった。逃げる前にみつちさんに捕まってしまい、怯えたウサギのように遊歩道にしゃがみ込んでいる。
自分は無能だ、と叶は自己嫌悪に陥った。強気で啖呵を切って出てきたのに、タイヤを切り刻まれて、挙げ句にみつちさんに答えてしまった。タイヤを切ったのはどうせ美千代の指図で屋敷のだれかがやったに違いないが、話など聞かず、葬儀が済んだらさっさと帰ってしまわなかった自分が悪い。自分の好奇心や詰めの甘さがこんな事態を招いたのだ。
悔しくて、叶は唸った。
気付けば、いつの間にか雨は止んでいたが、どんよりと落ちてきそうな雲が、まだ降り足りないと言っているようだった。
「叶さん!」
バチャバチャと足音が近づいてきた。
そこでも叶はハッとする。名前を呼ばれたとき、足音など聞こえなかった。それに気付いていたら、返事などしなかった。
「叶さん。さ、戻ろう」
一夜が静かに叶に立つように促し、右手を差し出した。
叶は自分ではどうにもならないことがあるのだと痛感し、右手に掴まって、力なく立ち上がると、一夜に伴われて屋敷に戻った。
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