9

 どのくらい経っただろうか……。

 緊張の連続に疲れ果て、叶は眠気に襲われ、いつの間にか横になっていた。泥の中に横たわっているかのようなねっとりとした空気に体が浸かっている。

 急に何か恐ろしいものがやってくる恐怖に駆られたが、目が開かないほどの眠気に負けそうになる。起きなければ、怖い目に遭うと分かっているのに、意識を手放しそうだ。座卓に手を伸ばし、体を起こそうとしたが、気絶するように叶は意識を失った。

 まだ雨が降っているのか、雨粒が蔵の瓦や壁に当たる音が聞こえてくる。蒸し蒸しする空気とともに畳を踏む足音がひたひたと伝わってきた。

 畳に頬をくっつけて気を失っていたことに気付いたが、ランタンの消えた蔵の中は、一寸先も見えないほどの闇に包まれている。叶は座卓の真下を覗くように横たわっている。視線の先に格子窓の付いた扉の下方と、暗く沈んだ四隅の一角が目に入る。

 黒いねっとりとした夜目に、ぼんやりと何かが見えてくる。目の前に横たわる闇は光を吸収して反射することのない漆黒に似ている。その漆黒の向こうに、うっすらと白い何かが闇に浮き上がった。

 黒い裾からわずかに覗く白い足袋。泥で汚れているのか、水気を帯びて黒く汚れている。裾にあしらわれた宝尽くしの手鞠を刺繍した糸の一本一本が、まるで照明を当てたようによく見える。

 それ・・は、暗闇の一角に埋もれるように立っている。座卓が邪魔で、裾から上はどうしても見えない。あれは希だ……、とぼんやりと思う。

 ここでようやく、叶は自分が金縛りにかかっていることに気付いた。

 この足はいつも雨の日に現れる。薄ぼんやりとしているくせに、視線を外した途端、くっきりと輪郭が際立つ。墨汁のような闇から、足が一歩踏み出した。

 不思議なことに泥に汚れた足袋から分裂するように、綺麗な白い足袋が現れて、畳をズッズッと摺りながら、叶から見て左手に消えた。

 足を摺る音が、そのまま叶の足下に回り、背後に移動する。足が移動するのを叶は凝視していた。

 背後に立つ足の存在を強く感じる。尾てい骨から首筋にかけて、鳥肌が立つ。寒いわけでもないのに悪寒が走った。

 叶の背後で、うずくまる足の存在が大きくなる。膝を畳について、背中越しに叶を見ている。首を伸ばして、長い髪を垂らし、じっと叶を覗いている。

 これは美都子さんじゃないだろうか。

 黒髪がぞろりと叶の帯を這う。肩に重たい気配が迫ってくる。顔が見えてしまうと思って目をつぶると、スッと気配は消えた。

 やっと消えてくれた。と安堵したが、やはり体は動かない。

 何が起こっているのか、想像も付かず、ただ恐ろしい。ぞわぞわと嫌な予感がする。腹の中でうじゃうじゃと虫が蠢いているような気持ち悪さ。虫がみぞおちに上がってきて嘔吐えずいたが、気持ち悪くなるばかりで、何も出てこない。

 額とうなじに脂汗が浮いてくる。じっとりとした空気に冷たい汗をかく。いっそ、このまま気を失ってしまいたいのにそれができない。

 うっすらと目を開けると、座卓の下を黒髪で顔が隠れた女が覗いていた。

 喉を息がひゅっと通り抜けていくが、声が出ない。

 黒髪が畳でとぐろを巻いている。目元は隠れているが紫色にうっ血した唇ははっきりと見える。顔の高さは叶と同じなのに、首が九十度に曲がり、座卓の上部に隠れている。首から下が座卓に隠れて見えない。

 土気色にも見える唇がわずかに開くと、ぽっかりと黒い穴が空いている。パクパクと唇を動かして何か言っている。耳を塞ぎたいのに、女の囁き声が耳元に忍び入る。

「おまえか」

 確かにそう聞こえた。また女が口を動かす。

「おまえか」

 何度も聞いてくる言葉が機械的だ。

 女の顔もどこか立体感がなく、ザザッとノイズが走り始める。けれど、声だけは耳元で囁かれる。

「おまえか」

 座卓の上から黒い振り袖が垂れた。はっきりと宝尽くし柄が見える。振り袖から芋虫のようにくねる白い指が現れた。指の動きがおかしい。人にできる動きではない。

 座卓の裏面を這うように指が近づいてきていたが、シュッと素早い動きで指が振り袖に引っ込んだ。振り袖も座卓の上へたぐり寄せるように消えていき、気付けば顔もいなくなっていた。

 叶は息を潜めて、じっと座卓の向こうを見つめる。格子窓から漏れる淡い光が見える。おそらく祈祷している祭壇に点された明かりだろう。けれど、何一つ音は聞こえない。多分、叶の声も扉の向こう側には聞こえてない。

 漏れた明かりが畳の上に差している。ズズズとその光を遮って、左から右へ何かが横切っていくのが目に入った。漆黒の影がゆっくりと移動していく。光を遮っている形が尋常でない。畳に映る影を、叶はただ見ているしかない。

 その大きな影が座卓を回り込み、叶の枕元に立つ。

 また、最初の存在が戻ってきたのか、と叶はぼんやりとした頭で考える。恐怖が限界に達して、気力がすぼんでいた。

 突然、掛け布団のように影が叶に覆い被さった。

 叶は金切り声を上げた。何度も喉が裂けるほど叫んだはずなのに、蔵の中は夜のしじまに沈んでいる。人の声、虫の声、雨音も何も聞こえない静寂。

 影がもぞもぞと叶の腹に這い上がってくる。動けない叶にとって、それは言葉にできないほどおぞましい。

 まるで巨大な虫が、ぞろぞろと叶の腹に入っていく。臓器を無数の手が掴む感触がする。いくつもある頭が体に押しつけられる。

 叶は何度も悲鳴を上げた。何かが体の中に分け入ってくる。

 いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!

 助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて!

 頭がおかしくなりそうな恐怖に意識が散り散りになっていく。

 逃げられず、拷問のように、皮膚の下、臓器の中を何かが這いずり回る。

 ふっと意識が遠くなるときに、叶は辺りが一瞬明るくなったように感じ、写真で見た女性の顔が見えた。

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