【美都子】
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できたばかりの菟足公園は、散策や読書や考え事に向いているので、よくベンチに座り読書をする。美都子にとっておみず沼は神様の宿る山池で、空の色で表情を変える美しい沼だ。
県の保有林に囲まれて、自然がそのまま残されている。菟足少年自然の家に宿泊し観光していく家族連れが増えた。ちょうどいい避暑地なのだ。
けれど、このおみず沼は恐ろしくもある。雨さえ降らなければ、何も怖いことなどないのに、そんなことを知らない外部の人間は、青い透き通った湖面を見て、表面上の美しさに心を奪われる。
すぐに現実離れした風景から気を反らす。
そろそろ、屋敷に戻ったほうがいい。母親が、今度のおかみさま講の事で呼びに来るかもしれない。
今は『おかみさま』と呼ばれている、おみず沼に
おかみさま講とは、月に一回おこなわれる村の寄り合いのようなものだ。別に新興宗教ではない。昔から細々と受け継がれている、龍神信仰なのだ。
幼い頃から美千代に教えられ、自分自身も神様の神意を聞き、すでに神様は生活の一部でもあるし、美都子は神様の巫女でもある。
母の美千代は、二十歳になったばかりの美都子にかなり干渉してくる。やれ菟上家当主だ、やれ巫女だ、そんなことで美都子を縛り付けるのだ。
後ろ手に本を持ち、茶色いレンガ敷きの遊歩道をまっすぐ歩いていった。
梅雨明けの日差しが眩しい。午前中はまだ気温も低く日も照っていなかったから、ちょっとだけのつもりで本を持って散歩しに来たのだ。
菟足少年自然の家を通り過ぎて、右手にある祈祷場の少し行った先にある細い遊歩道に入り、ゆっくりと坂道を登っていく。この坂道は菟上家が作った私道だ。
登り切ると、道は県道に出る。道路を渡り、菟上家に続く砂利道に入る。緩めの坂を登っていくと、屋根瓦を葺いた立派な和風門が見えてくる。
初夏の日差しが強くなる前に、美都子は早足で門扉をくぐった。
「お帰りなさいませ、美都子さん」
出迎えてくれたのは分家の女性だ。本家の人間は美千代の代でほぼ亡くなってしまった。それらの死は、『おかみさま』の祟りだと美千代から聞いている。
霊力を持って生まれた美都子のおかげで、『おかみさま』の祟りは止み、菟上本家は途絶えることなく、生き延びられた。と、美千代から聞かされて育った。
まるでせき立てられるように美豆神社を継いで宮司になった巳知彦と結婚したのは三年前。かりはらの責務を全うして、跡継ぎの双子を産んだのは二年も前だ。
神様の巫女の最も大事な役目は、かりはらを全うすることだ。美千代は祟りを恐れて、すぐにでもかりはらを全うさせようと焦っているようだった。通例ならば二十歳まで待つはずの結婚を三年も早めた。学生生活も結婚と同時に終わった。いやだと思ったけれど、美千代の言は絶対だった。
菟上家の跡取りの女は、昔から二十歳前後で結婚し、二十代で子供を産む。例外は、美千代だけだった。叔母の死のせいで、二十五歳を超えてから亡き父である文蔵と結婚した。美都子が生まれるのに多少時間はかかったが、無事に美都子を出産した。
美都子まで自分と同じような事にならないか、それを危惧した美千代は焦ったようだった。
美千代の焦りをよそに、美都子には美千代に黙っていることがあった。
数ヶ月前、どうにも体調が優れず、言えば美千代が大騒ぎすると思ったので、相談することも憚れ、一人で婦人科を訪れた。激しい生理痛と終わらない不正出血に耐えられなくなったからだ。
嫌な予感はずっとしていた。様子見で半年我慢したが、遅すぎた。
生体組織診断をした後、つい先日、結果を聞きに婦人科に行ってきた。
医師から、ご家族も呼んだほうがいいのでは? と言われて覚悟ができた。
「いいえ、家族には秘密にしたいので」
美都子は静かに答えた。おかしなくらい感情的にならずに済んだ。
そんな美都子の様子を見て、医師はレントゲンと生検の結果を差し示す。
「この癌は進行性で、すでに他臓器に転移しています。子宮と卵巣の摘出をする必要があります。本当にご家族を呼ばなくていいんですか?」
美都子は抗がん剤治療や手術のことを考えて、医師に告げる。
「手術は必要ないです」
体中に転移した癌を全部取ったとしても、年齢が若い程、進行性の癌は体から消えてなくなる事は滅多にないだろう。本屋で読んだ、癌について書かれた本にそう書いてあった。
美都子の子宮は、彼女に猶予を与えてくれなかった。
「転移した癌が大きくなれば痛みが今以上に出てきます。本当に手術をしなくていいんですか?」
医師に何度も説得されたが、美智子は引かなかった。
「ええ、手術はしません」
美都子は深々とお辞儀をした。命の猶予はあと数ヶ月。少しでも長く生きたければ、抗がん剤が必要になるし、もしかすると手術することで進行を遅くする可能性もあるだろう。
しかし、美都子は病魔に冒された姿を見られ、同情もされたくない。病気と闘って克服したいです、と空元気を家族のだれにも決して見せたくない。
元々、自分は巫女として神様に人生を捧げる
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