8

「ここで何をするんですか」

 叶が聞くと、

「ここにひと晩、いてもらう。ちゃんと蔵の四隅に結界を張ってあるから、みつちさんは簡単に中に入ってこられないよ。この中に籠もってみつちさんを無視できれば、しばらくはみつちさんに付きまとわれない」

 一夜が真剣な顔をして言った。

「それだけですか? しばらくっていつまで?」

「分からないが、君自身がみつちさんを祓えるようになるしかない」

 私は帰るつもりだ、という言葉を今はぐっと堪えて呑み込んだ。みつちさんを祓ってもらったら、どうにかして自分の家に戻る。おみず沼がなければ、みつちさんも私を殺せない、実家にいたときのように、自分を驚かせて怖がらせるだけの存在に戻る、と叶は思った。

「他に何かしないといけないことはありますか」

「特にない。とにかくひと晩、夜が明けるまでこの中にいて、だれが呼んでも声を掛けても答えないこと。もし反応したらみつちさんはこの蔵に入ってくる。そうしたらもうみつちさんを祓うことはできない」

 絶対に守ってほしい、と念を押された。

 そんなことを言われるまでもなく、叶は今度こそ失敗しない、返事もしないと決めていた。

 一夜と女性が出たあと、扉が閉められた。多分、鍵も掛けられたと思う。叶は最初こそ正座して座卓に頬杖を突いていた。

 唯一の扉には格子窓が付いていて、外の様子を窺うことができる。

 扉が閉められてしばらくは、人のざわめく声やものを動かす音がしていた。やがて、太鼓の音がし始めて、御霊移しの時に聞いたような祭文を、美千代が唱えている。

 何度もつっかえたり止まったりと、あまり効果がなさそうな唱え方だ。綺麗に唱えたら効果があるというわけではないだろうが、叶はそんな気がしてきて、不安になった。そっと立ち上がり、音を立てないように格子窓に近づいて外を窺う。

 いつの間にか、雨が降りだしていた。

 雨の中、地面に直接一畳敷いて、その上に美千代が座り、棒に白いひらひらしたものをふんだんに取り付けたぬさを振りつつ、むせながら黙々と休みなく唱えている姿があった。空気を震わせるように太鼓を叩いているのは、一夜だ。一体、この儀式はいつまで続くのだろう。

 日が落ちて、祈祷をしている人たちの顔が判別できなくなった頃、ようやく今が十九時すぎだと分かる。

 美千代は息を継ぎながら、苦しそうに幣を振り、か細い声を漏らしている。今にも倒れてしまいそうだ。

 完全に日が暮れるまで、叶は外の様子を観察していた。しかし、次第に飽きてきて格子窓から離れる。すると、あっという間に闇が押し寄せてきた。手探りで唯一あったランタンのスイッチを点けると、闇を塗り固めたような漆黒が蔵の四隅に逃げた。

 ハンドバッグもスマホも取り上げられたので、時間を潰す手慰みもない。

 ぼんやりしていると、コンコンと格子窓が叩かれる。

「叶、スマホを持って来たよ」

 我に返って顔を上げ、格子窓を見た。確かに母親の声だった。

「開けて」

 そこでまたハッとする。まさかと思うが、これがみつちさんなのか。神域でも、ごく自然に一夜の声で話しかけてきた。それと同じ得体の知れない存在が、今度は母親のふりをして側に来ている。

「叶、叶! 迎えに来たぞ。帰ろう」

 今度は父親だ。叶が両親に一番言ってもらいたい言葉が聞こえてくる。けれど、声の主は両親ではない。そう考えるとだんだんと悲しくなってくる。本家がどれほどのものなのか。どれほど偉いのか。そんなことは叶には関係ない。できれば両親にも気にしてほしくない。それなのに、現実は叶に厳しい。

 こんな呼び声は叶の心をかき乱す。でも泣いて反応すれば、儀式は失敗するらしい。

 死にたくない思いが悲しさよりも強くなる。生きていればいくらでも反抗して、両親の元に戻られるはずだ。

 外から太鼓の音だけが響いてくる。リズムを刻む太鼓の音よりも鮮明に、みつちさんの声が叶の耳に忍び入る。自分が言って欲しい言葉や心が揺れる言葉を囁いてくるのは、みつちさんがどうやってか分からないが、叶の心を読み取っているからだと思った。

 耳を押さえても、声は手のひらを通り抜けてはっきりと聞こえてくる。声を上げて抵抗すればやはり反応したことになるかも知れない。

 膝を抱えて声を聞かないように、叶はぎゅっと目を閉じた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る