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 一夜がおみず沼へ体を向ける。

「それは分からない。ただ、『おかみさま』は雨乞いに応じてくれる、とても力のある神様なんだ。だから、その神に菟上家が祈雨止雨のご祈祷の度に人身御供を捧げていた、と思われていた。明治時代になって祠は神社と合祀されて、『淤加美神おかみのかみ』がご祭神になった。菟上家は、『おかみさま』という名で神様を祀ることで、政府の目をごまかしたんだ」

 相づちを打ちながら、叶は一夜の話を聞いていた。

「じゃあ、『おかみさま』の元の名前は何なんですか?」

「昔は『みつちさま』と呼ばれてた」

「昔は?」

『みつちさま』は、淤加美神に名前を奪われて、自身に向けられていた信仰を失い、忘れられることで零落し、得体の知れない存在になったのか? だとしたらやはり、道祖神は得体の知れない零落した『みつちさま』を封じる為にあるのだろうか。それとも、異常なほど恐れているみつちさんを封じているのだろうか。

「『みつちさま』はもう信仰対象じゃないんですか? 放置していたら良くないんじゃないですか」

「力のない神は俺たちに何も出来ないよ」

 一夜が屈託なく笑う。

「じゃあ、道祖神はなんの為にあるんですか」

「当時の菟上家の巫女が建てたそうだよ。良くないものが出てくるかららしいけど……」

 おみず沼の四方——東西南北に道祖神を建てたのは、やはり、おみず沼を封印するためなのだ。叶は、道祖神を見たときに考えた言葉を口にする。

「それってみつちさんに対する結界なんじゃないですか?」

 一夜が驚く。

「道祖神が結界だって、どうしてそう思ったの?」

「だって、道祖神は普通、村境に置くものでしょう? 村を疫病や良くないものから守るためにって本に書いてありましたけど、本当はおみず沼から得体の知れないものが出ないようにしてたんじゃないですか」

「詳しいね。俺は希さんに教えてもらった」

「壊れたままじゃだめなんじゃないですか?」

「修理しても追いつかないんだよ。修理しては壊されるって感じで、イタチの追いかけっこみたいになってしまって、ここ一年は壊れたままなんだ」

 あれほどみつちさんを恐れていながら、結界に関してなぜ無頓着なのだろう、と叶は呆れた。同じ理屈で、美千代には無理だと分かっているのに、なぜ彼女にご祈祷やお祓いをさせたのか。

 無頓着と言うより、もはやおみず沼に対する諸々の信仰が奪われてしまったから、同時に何故結界が張られたのかという理由すら忘れられてしまったのかも知れない。

 あの鳥居にいたものは、封印が解かれて出てきたみつちさんなのだろうか。まさか、一年前から見ていたものもみつちさんなのか。みつちさんは、叶が菟足村を訪れるのを待ち続けていたんだろうか。

「みつちさんをお祓いしてまで恐れてるのに、意外と気にしてないんですね」

 叶の無神経な言葉に一夜が薄く笑う。

「おかしなもので、昔からのしきたりや習わしは信じてるというよりも、身に染みついているんだ。ありもしないものを怖がって、すぐにお祓いをしたがる俺たちが滑稽に見えるだろ?」

 滑稽とは思わない。確かに得体の知れないものはいる。その得体の知れない何かが、おみず沼からやってくるというイメージは、原初の恐怖に直結しているかもしれない。

「希さんは意味があると言っていたが、正直、道祖神を建てる意味があるのか、分からないんだ。封じてると言っても、それは明治のころに、当時の巫女が考えたことだし、今の世の中では形だけが残っているに過ぎない。神経質になるほどのことではないだろうし」

 大学助教の影響なのか、このまま放置していると、境界を守護し結界を張る装置が機能しなくなってしまう、と叶は穿って考えてしまう。

 東西南北の四つの点が一本の線になって結ばれている。その一つの点である道祖神の一体が壊されてしまったということは、線がほどけて、そこから封印していたものが外界に出て来ているのではないか。

 先ほどの鳥居に佇んでいた異形が、叶の脳裏を掠める。屋敷の中で見た濡れそぼった女。電車の中で感じたもの。今まで見た異形の存在が、次第に自分に近づいてきて、接触しようとしている恐怖を覚えた。

 全て希が行方不明になった時期からだ。菟上家やおみず沼と関係を持つものなのだろうか。では、黒い着物姿の長い黒髪の存在は一体だれなのだろう。希か、水葉か……。

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