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結局徹夜した叶はパジャマのまま、いつもよりも早く階下にあるダイニングへ入り、母親に向けて「おはよう」と声を掛けた。コンロの前でベーコンエッグを作っている母親が振り返らず、叶の挨拶に答える。
「おはよう」
昨日と同じ代わり映えのない朝。悪夢を見た次の朝は、平凡であればあるほど安心する。リアルな悪夢が現実ではないことを噛みしめることが出来るからだ。
母親がダイニングのテーブルの上に作り置きの煮付けと味噌汁を並べて、茶碗を叶の席の前に置く。叶は茶碗に炊きたてのご飯を盛っていく。父母と自分の三杯分。
そのうちに父親があくびをしながら、叶と同じような格好でダイニングに入ってくる。普段着姿は母親だけだ。
食卓を囲み、他愛ない会話をする。そのうち父親がテレビのリモコンを手に取りテレビを付ける。朝のニュースを叶はぼんやりと眺める。一週間の天気をお天気お姉さんが説明している。一週間の地域の天気が表示される。
「あーあ、一週間、雨かぁ」
父親が残念そうに呟いた。それを聞いて、叶も一週間分の幸運を逃したような気分になる。
「傘忘れるなよ」
父親が叶に忠告した。
「うん、お父さんもね」
傘を忘れた父親がコンビニの透明なビニール傘を買って帰り、傘立ては今やビニール傘でいっぱいだ。
「ビニール傘、いい加減捨てちゃおうかな」
「まだ使えるじゃないか」
のんびりと父母が会話している。
リビングの庭に続く掃き出し窓の外を見る。ニュースの言うとおり、しとしとと雨が降っていた。
今日も多分、嫌なものを見る。悪夢だけでうんざりなのに。叶はのそのそと席を立ち、大学に行く準備をし始めた。
洗面台で顔を洗ったときに、自分の顔を叶は見つめる。目の下にうっすらクマができている。寝不足の冴えない顔つきだ。汗で湿っていた栗色のボブカットの髪も今は乾いている。シャワーを浴びようか迷ったが、時間的にタイトになってきたのでやめた。
一度ダイニングに顔を出して行ってきますと挨拶する。母親がちょうど、朝ご飯を食べているところだった。目が合ったので、叶は手を振った。
父親はすでに家を出ていた。玄関に通勤靴がないので分かる。いつものごとく、ギリギリまで家にいて、徒歩二十分先の駅まで早足に出掛けていったに違いない。
叶も、濡れてもいいようにスニーカーを履き、自分の折りたたみ傘を持って、玄関の外に出た。
空に雨雲はあっても重く垂れ込めるわけでもなく、ともすれば晴れてきそうな明るさだったが、雨だけがしとしとと降り注いでいる。
地下鉄にさえ乗ってしまえば、福北大学までドアツードアだ。福北大前駅から大学まで一分もかからない。
それでも、家から最寄り駅は遠く、早足でいかねば、雨の日などは時間がかかってしまう。叶は緩くでこぼこしたアスファルトの水たまりを避けながら、駅に向かった。
地面を見ながら歩くと、距離を気にせずにいられる。心なしかいつもより早く着くような気がするので、叶はいつも下を見て歩いてしまう。
住宅街を歩いていると、背後からバチャバチャと複数の足音が近づいてくる。小学生か中学生の集団だろうかと、叶はぼんやりと考える。いつまでも足音は背後をついてくる。
つられて早足で歩いていると、靴紐が緩んできたので、前屈して紐を結び直す。長い紐の端が水に濡れて、触るのが少し嫌だった。傘は不自然に前に倒れて前方も後方も見えない。
ようやく後ろを付いてきていた足音が叶の横をよぎっていく。黒い草履を履いた自棄に泥で汚れた足袋や白い足袋、素足でそのまま濡れた地面を歩く足、何人かの足が見えた。着物の裾は黒くて柄までは見えなかったが、叶は紐を結ぶ手を止め、一旦体を起こして周囲を見渡した。
だれもいない。背後の一直線の道に隠れる場所などない。前方は橋で、とても見晴らしが良く、幅広の川を渡っていくとそこが駅だ。
ただでさえじっとりと湿気の多い空気なのに、さらに冷たい汗をかく。首筋の毛が逆立つような寒気を感じた。
また、見た。
いつも雨の日に見る、黒い着物を着た何か。多分女なのだろうか。いつも着物の一部だけが見える。以前、何度か振り袖が翻るのを見たことがある。勘違いでなければ、あの着物も多分、黒地に木槌や手鞠の柄が描かれた宝尽くし柄の振り袖だろう。その着物は夢の中で自分が着ていたものに似ていた。
嫌な符合だが、黒い着物姿の女が何かしてくるわけでもない。見なかったことにするのが無難かも知れない。それにあれは自分にしか見えない。
一年前、雨の日、野外に出た時にだけ黒い着物姿の女を度々見るようになった。友人に「今、あそこに着物の女の人いなかった?」と訊ねてもだれも見ていないことなどしょっちゅうだった。
叶は軽いため息をつく。
夢の中の黒い振り袖と同じものを着ている、雨の日に見る女。幽霊だとはっきりと確かめたわけではない。視界の端にフッと現れて見直すと消えている。あまり良い気分ではなかった。
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