3
美千代が、浅く息をつき、
「希の部屋を使いなさい。もう案内されたでしょう?」
弱々しく命令した。
戻ってきてはいない、帰るつもりだ、と叶は内心思ったが、まだそれを言う雰囲気ではない気がして黙っておいた。
ちょうどお茶が持ってこられて、会話は途切れた。
美千代の呼吸が「はっはっ」と小刻みになってきた。顔色も悪い。
「美千代さん、部屋に戻りましょう。手伝ってやってくれませんか」
と、一夜がお茶を持ってきた女性に天水が言った。
「いいえ、まだ伝えることがあります。手伝う必要はありません。さがりなさい」
女性は美千代の様子を気にしながら客間から出て行った。
天水一夜が差し出した手を押しとどめ、美千代が続ける。
「今日から一夜は叶の婚約者です。一夜、いいですね?」
叶は間髪入れずに、言い返す。
「あの、そんなこと聞いてません。私は姉のお葬式に来ただけです。お葬式が終わったらすぐ帰ります。なんで、勝手に婚約とか決めるんですか!」
「希が死んだのです。今から叶は菟上の当主なのですよ。当主は美豆神社の宮司と結婚するのは昔からの取り決めなのです。嫌も何もありません」
「当主になるとか結婚とか、全然納得できません。お葬式が終わったら帰りますから」
感情のままに今すぐ帰ってしまったら、母親に迷惑がかかるかも、と叶は気持ちを抑えた。
それまで険しい顔つきで叶を見据えていた美千代が、苦しそうに胸を押さえている。
「美千代さん……、部屋に戻りましょう」
一夜が廊下に向かってさっきの女性を呼んだ。やってきた女性が美千代を支えて、部屋を出ていった。
事情がわからない叶は、呆然とその様子を見ているしかなかった。
「あの……、美千代さんは」
叶が一夜に訊ねると、
「美千代さんは病気なんだ。今日は無理をして君を出迎えたんだ」
そうだったのか……、と叶は自分が美千代に対して語気を荒げたことを後悔する。
「すみません」
「君は知らなかったんだし、それに急にあんなことを言われたら、だれでも驚くよね」
一夜が淡々と答えた。
希が亡くなったとわかって、すぐに叶の婚約者だと言われたのに、なぜこんなに冷静でいられるんだろうか、と叶は不思議に思った。
「希さんが戻ってくるのは三時過ぎるらしいから、もう少し話をしていられる。その後は忙しくなるからゆっくり話す時間がないんだ。聞きたいことがあれば言ってほしい」
改めてそう言われると、すぐに質問が浮かばない。まずは気分を落ち着かせなければ。
「その前に……、あの、すみません。お手洗いは……?」
トイレに行きたいわけではなかったが、一人になりたくて訊ねた。
叶の言葉に一夜が立ち上がり、ふすまを開ける。
「廊下を玄関まで行って、左に曲がった突き当たりがお手洗いだよ。一人で行ける?」
「大丈夫です」
叶は慌てて立ち、部屋から出た。
葬儀の準備は終わったようで、準備にバタバタしていた分家の親族たちが、希が戻ってくるのを茶で一服しながら待っている。
玄関から左に曲がると、途端に廊下が薄暗くなる。窓もない廊下の先にお手洗いがあるようだ。
胸の内でどうやって葬儀後、抜け出せるか考えながら廊下を進む。
なぜだか暗がりが天井や廊下にもわだかまっている。効き過ぎた冷房の風なのか、ひんやりとした空気が頬をなでた。
ふと、叶は足を止める。左肩に圧を感じる。だれかが立っている気がした。じっと息を潜めて叶を見ている。
そのままじっとしていたが、相手も微動だにしない。振り向こうとするも、体が意思と関係なく動かない。
「カエレ」
地を這うような冷たい声が、耳元で囁かれた。左側の耳の産毛がぞわりと逆立ち、首へと伝っていく。声の主が睨めつけるように自分を見ているのだ。
眼球をゆっくりと左側に動かした。左の視界の端に影が映った。黒い着物姿で長い髪の女が立っている。気付けば、女の髪は濡れそぼっていて、ポタポタと水滴が落ちる音がする。
吐く息が白い気がする。寒くて歯の根が合わなくなってくる。
カチカチカチカチ。
自分の出している音かと思ったが、違う。うつむいて立っている女が歯を鳴らしている。
それは聞き慣れた音だ。寒気とは別に怖気が走る。
叶は気づいた。女は寒くて歯を鳴らしている。今の叶のように、体の芯まで冷え切っているのだ。だから歯を鳴らす。
どのくらい、じっとしていただろう。叶は思い切って、顔を上げ振り向いたが、やはりそこにはだれもいなかった。確かに人が佇んでいたのに、廊下には人が立てる隙間などなかった。
蟻が這い上がるようにうなじの毛が逆立つ。怖い感覚よりも先に、体が反応した。
なぜ、黒い着物姿の女がいるのだ。屋内に入られないのではなかったか。しかも、氷川家で見るよりも姿形がはっきりしている。
次第に恐怖に手足が痺れてきた。何度も腕をさすって、叶は周囲を見回した。
皆、祭壇のある座敷にいるのだろう、そちらから弔問客のさざめきが聞こえてくる。
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