8
叶は少しずつ一夜から離れ、天水に何事もなかったように話しかける。
「業者さん、なんて言ってました?」
奥歯がガチガチと鳴るけれど、精一杯平然とした表情を取り繕った。
「これから来ると言っていた。今日中に修復してくれるそうだ。安心したかい?」
「ありがとうございます、我が儘を言ってすみません」
天水も一夜の仲間であるはずなのに、一夜のような気味悪さがない。
「いいよ、全然我が儘じゃない。確かに結界が破れていたら不安だろう」
「そうですね……」
「思っていた以上に一夜も初仕事をやり遂げていて、安心したよ」
天水が自分の肩を叩きながら、深いため息を吐いた。
「さて、雨が降ったらいけない。片づけて屋敷に戻ろうか」
叶は一夜を振り返ると、彼も片付けを始めていた。明日、また祭壇を一から作り、鎮魂祭をする。
しかし、明日の鎮魂祭をやるつもりなど毛頭なかった。
封印がなされたら、今夜逃げる。身一つで逃げないと、勘づかれてしまうだろう。氷川の家まで逃げれば、封印されたみつちさんは追って来られない。さすがに力尽くで一夜が自分を菟上家に連れ戻すとは考えづらい。
もし、力尽くでできるなら、とっくの昔にそうしているだろうから、おみず沼から離れると、神様の力も及ばないのだろう。
だから、逃げるなら今夜しかない。腹に宿ったものがどうなるか分からないけれど、おみず沼から離れた時点で力をなくす可能性だってある。
そう、信じたい。
おとなしく天水の後ろを付いていき、菟上家の屋敷に戻った。
夕方には割れた道祖神が修復されたという連絡を天水から受けた。叶の考えが正しければ、みつちさんはもうおみず沼から離れられないはずだ。
叶はおとなしく夜が来るのを待った。
夜半過ぎになるまで、叶は部屋でじっと待った。
時間が経つのが自棄に遅く感じられた。何度もおぞましい考えが頭に浮かぶけれど、蓋をするように覆いをかぶせて、今は考えないようにした。
鎮魂祭のあと、屋敷に戻って黒い振り袖を脱いだときは、靄のようにこびりついていたものが取れた気がした。けれど、それは錯覚だと分かっている。
悟ってしまってからずっと、わめき散らして、何もかも壊してしまいたい衝動に駆られる。でも、そんなことをしても、思い至った答えは覆らない。希もきっと自分の運命を悟ったとき、同じ思いに駆られたかも知れない。
夜が深くなるにつれて、少しずつ人の気配がしなくなる。ようやく静まりかえった頃には、夜中の一時半を過ぎていた。
ドアをそっと開けて、叶はハンドバッグを抱きしめながら、廊下を忍び足で玄関へ向かう。建て付けの悪い屋敷でなくて良かった、と安堵する。廊下を踏みしめても家鳴りがしない。
玄関の靴箱から自分のスニーカーを取り出す。音を立てないように内鍵を開けて、外に出た。
風が強くて、ボブカットの髪が風に煽られて乱れる。月は雲に隠れ、じっとりした空気が肌を舐めた。雨がいつ降ってきてもおかしくない。
叶は車の鍵を取り出して、急いで中に乗り込んだ。車を出したら、その物音で屋敷のだれかに気付かれるかも知れないが、そのときには車はあっという間におみず沼周りの公道を抜けて、市街地へ向かっているだろう。
案の定、何事もなく屋敷の敷地内から出ることができた。
車を走らせた頃合いに、ぽつぽつと雨が降ってきた。
外灯もない公道は暗く沈み、ライトの当たっている所だけが浮き上がって見え、他は闇に黒く塗りつぶされている。その心許ない明かりも、次第に激しくなってきた雨で見通しが悪くなった。
急いでおみず沼から離れたくて、叶は無意識にスピードを上げていた。見通しの悪い雨の中、カーブの多い、山池周辺の公道を法定速度ギリギリで走る。
おみず沼の周りに点在する、心霊スポットを巡ったときに通った道を、今は逆方向に市街地を目指している。
ガクンと運転席が揺れて、白い指が、叶の髪を掴んだ。
「ひぅっ……」
息を飲む音が喉から漏れる。後ろから肩と首に指が絡まってきて、ハンドルを握る叶の手にまで長くて白い腕が何本も伸びてくる。気を抜くとハンドルから手が離れそうになる。
耳を指が、髪を無数の手が掴む。首に手が絡まって強く絞め始めた。喉から潰れた蛙のような声が漏れた。
叶はアクセルを踏み、さらに速度を上げた。
おみず沼から、離れないと……!
あともう少しで結界の外に出る。それまで耐えないと。みつちさんに連れていかれてしまう。
ぐねぐねと曲がる公道をなんとかハンドルを切って走らせた。顎を取られ、口の中にまで指が入り込む。少しずつ顔がのけぞっていく。
首を折ろうとしているのか。もうすぐ、四つ目の道祖神を過ぎる。それがおみず沼を巡らされた結界の境界線だ。
あともう少し。あともう少しだけ。
叶の足がさらにアクセルを踏む。
ライトで照らし出された道祖神の横を通りすぎていった。
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