9
ざわざわと指が少しずつ叶から離れていく。指が爪を立てて、叶の首に傷を付ける。
それを最後に、気配は消え去った。
荒く息をつき、なんとか呼吸を整える。
道祖神を修復したおかげなのか、みつちさんは追ってこられない様子だ。
たった三日間のことなのに、叶にはとても長い時間に思えていた。三日前に通り過ぎた道すら、一年ぶりくらいに思える。
前方にトンネルが見えてきたとき、車内が急に冷えてきた。フロントウィンドウが温度差で曇り始める。叶はチラチラとパネルを見ながら、フロントウィンドウに温風を当てる為のスイッチを探した。
ふぅっと冷たい風が叶の耳元を掠める。
何か変だ。
みつちさん? 叶の脳裏に恐ろしい異形の姿がよぎる。いや、先ほど結界の外に出たから、追ってこれないはずなのに。
車内の温度がより一層下がり、息が白くなる。半袖のワンピースでは寒くて、仕方ない。
背後から人の気配がする。
だれかいるのか? まさか一夜が潜んでいるなんてことはないか、と訝しむ。
「だれ?」
小声で声を掛けた。
答えなどない。やはりだれもいないのだ。
それなのに、冷たい凍えるような気配が背後で膨らみ続け、ぎゅうぎゅうにひしめき合い、運転席に座る叶も息苦しくなってくる。
だれかがいるけれど、だれか分からない。ただ、尋常でないことだけ分かる。
車がトンネルの中に入った。ライトが自動的にハイビームになる。トンネルにはナトリウムランプの心細いオレンジの光が点っている。ライトが届かない暗い影のほうが、照らされた場所より大きい。暗闇を抜けるとまたオレンジの光に照らされる、を繰り返す。
その間も、氷のような気配は叶の背後から近づいてきて、その息づかいが耳元で聞こえる。
怖くて目をつぶってしまいたい。目を開けていたら視界に入るかも知れない。
左側の首筋から腕に掛けて、鳥肌が立っている。怖気が体の表面を移動する。
地の底を這うようなため息を耳元で吐かれた。
叶は体を硬くする。
前方だけを見るように意識を集中する。
目の端に何かが映る。それがゆっくりと、背後から突き出てきた。
異様に長い首を伸ばし、垂れた黒髪で隠れた顔がこちらを見つめている。
カクンと首が九十度に曲がり、女の顔が横に倒れる。地獄の底から這い上がるような声が頭の中で響いた。
「おまえか?」
みつちさんは結界を超えられない。けれど、水葉の悪霊にそれは関係ない。
まさか、こんなことが……。信じられない思いに駆られて、悲鳴が漏れそうだ。辛うじて、叶は「私じゃない!」と叫んで目を一瞬つぶった。
目を開けたとき、車はトンネルを抜けていた。暗闇に目が慣れる前に、急なS字カーブにさしかかったことに気付いた。
急いで、右にハンドルを切る。離合の難しい狭いカーブだ。
なんとかカーブを曲がれたと思ったとき、目がくらむようなライトの明かりが目の前にあった。
つんざくようなクラクションの音。
トラックの前面を軽自動車のライトが照らし出す。
叶は目一杯ブレーキを踏んだ。
避けようとして、思わずハンドルをガードレールに向けて左に切った。
左に切ったが間に合わず、激しい音を立てて車の側面がトラックに衝突した。
ひしゃげた車体が横転し、ガードレールに火花を散らしながらぶつかると、雨で滑りやすくなった路面を転がっていく。
ガードレールが切れたところで、軽自動車は崖に投げ出された。
叶は叫ぶまもなく、車と共におみず沼に落ちていった。
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