6
翌朝、七時には祈祷場に祭壇が設けられた。祭壇はおみず沼の方に向けられている。おみず沼に舞を奉上するのだろう。
水葉が叩き壊した祠を捨てるように沈めたおみず沼に、かつての『みつちさま』の信者たちが、神妙な面持ちで『おかみさま』に舞を奉上するのだから、笑えないと叶は思う。
水葉を死に追いやった美千代が、『おかみさま』ではなく『みつちさま』に舞や祈祷を納めていたら、何か変わっていただろうか。
希は、教えられなくても『おかみさま』が『みつちさま』であること知っていただろう。『みつちさま』の神意をちゃんと受けていたはずだ。口伝されなかったことも含めて『みつちさま』から教えられたのではないか。
でも……。叶の思考はそこで躓く。
希は逃げた。何かを知ったから逃げたのか? 何かを見たから?
こればかりは希ではないからわからなかった。
今日は水葉に舞を納めて魂を慰め、鎮める。そのために叶は黒い振り袖姿で、祈祷場——おみず沼にせり出した畔に立った。
多分、目の前の祭壇は鳥居を背後に、もともと祠のあった方角に向けられるのが正解だろう。けれど、希の意見はきっと退けられたと思う。
希は、美千代が隠蔽した数々の事柄の犠牲になったのだ、と叶は考えていた。
「では、始めましょう」
叶の左側に立つ天水が叶に合図した。深く二礼、静かなおみず沼に響く二拍手、最後に深く一礼。同時に叶もおこなう。
靄がかったおみず沼の湖面が静謐に満ちている。揺らめく霧に辺りが包まれている。
一夜の太鼓がピンと張り詰めた空気を揺るがす。それを合図に祭壇へ向けて、天水が祭文を奏上し始めた。
昨夜、教わった舞を、神楽鈴を手に左周りでゆっくりと円を描くように舞う。回りながら足運び、手の動き、鈴の鳴らすタイミングを合わせていく。それが上手く合わさると太鼓の音と、気分が相乗して高揚する。
ただひたすらに、左回りを続けていくうちに、円が小さくなっていき、ほぼ、左旋回へと変化する。回る勢いに長い袖が体に巻き付かんばかりにはためく。
舞と言うよりも、原始的な躍動を感じる踊りだ。最初こそ、所作を丁寧になぞる、ゆったりとした、神楽でよく見る舞だったはずが、脈動と同じリズムで太鼓が轟き、心臓の鼓動に合わせて、神楽鈴が鳴らされる。
これ以上は無理だと思うほどに旋回し、地を踏みしめて腕を振り上げ、空を仰ぐ。
次第に頭の中は空っぽになっていき、目は開いているけれど焦点は合わず、別の世界の入り口が見え始める。自分の呼気が耳元で聞こえ、脈打つ血潮を体で感じ始める。
気分が高揚として酩酊してくる。意識と肉体が分離して、いつしか叶は自分の姿を上から眺めていた。
回転する自分の体の線が、二重三重とぶれる。まるで、鏡の中の自分が一拍遅れるような不自然さ。その遅れがますます際立っていき、黒い人影が自分の体の線から分離して見えた。
黒い振り袖の裾からはみ出た何本もの脚。それぞれが白い足袋をはいていたり素足だったり、蛸の足のように生えている。
長い袖から見える腕が、千手観音のように伸びている。それぞれがひらひらと宙を掻き、指を蠢かす。
襟から伸びる首から上は異様に大きく、もはや人と呼べるものではない。目や口などの顔のパーツが、無造作に大きな塊の表面に捻じ込められ、長い黒髪はぼうぼうと、目鼻の間からススキのように生えている。
頭のそこかしこにちりばめられた赤い唇は大きく開かれて、耳には聞こえない笑い声を上げていた。
あからさまにゲラゲラとあざ笑っている異形が、一拍遅れて、叶の体からはみ出している。
それを見て、叶は、「ひっ」と息を飲む。
そして、悟った。希が逃げ出したのは
この異形は、みつちさんなのだ。今まで、体の一部だけが見えて、何なのか正体が分からず、それでいて喉に引っかかった魚の骨のように気になっていた。
今まで『みつちさま』に捧げられてきた、巫女たち。花嫁として捧げられるべきだったのに、人身御供として『みつちさま』のもとに無理矢理送られてしまった、乙女たち。数え切れない娘たちが、魂を重ね、恨みを重ね、怨念を重ねて、形になった。
希は
振り袖が黒なのは、喪服だから。振り袖の柄が宝尽くしなのは、婚礼の意味が込められているから。本来ならば、神様——『みつちさま』が求めた多くの花嫁たちであるべきなのに、いつしか、生け贄にすり替えられた。おみず沼の底には、『みつちさま』の祠と同じように、娘たちも沈んでいるのだ。
いくら考えても知り得なかった情報が、高揚としてトランス状態にある叶の脳みそに流れ込んでくる。こうやって、巫女たちは自らの運命を、神意によって伝えられてきたのだろう。
そして、道祖神で作られた結界は、みつちさんである巫女の怨霊が無差別に人に取り憑いて命を奪わせないよう、異形を封じる為に、巫女舞を禁じられた菟上家の巫女が苦肉の策で講じたものなのだ。
思えば、美豆神社に遺されていた江戸時代以降の家系図は、巫女を生け贄に捧げるという偽史を綴った呪われたものだったのかも知れない。
求めてもいない、「死」によって穢されてきた『みつちさま』。
連綿と続いた運命の歯車が狂ったのは、美千代のせいだ。捧げられるはずの花嫁がここから途絶えた。三代途絶えて、安定していたものが崩れてしまったのだろう。みつちさんは、人であったことを忘れて、永い
死と血の穢れによって神の怒りを利用した、水葉の悪霊が菟上家を祟ったように。負の存在を抑え込む為には、確かに巫女は必要なのだ。
いや、怨霊と化した巫女たちは、もはや鎮魂されたいわけではないかもしれない。むしろ死によって穢され、菟上家を祟っている『みつちさま』に祈りすがっている菟上家の人間を見て、せせら嗤っているのだ。
叶は目の前の異形を凝視するしかない。異形の目がぐりぐりと動き、体から離れて浮遊する叶を捕らえた。
これ——、この霊、私、気付いては、いけなかった——————!
その瞬間、怯えるよりも早く、叶の体が爆ぜて散り散りになった。
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