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 菟上家の巫女が祀っているのは確かに『みつちさま』であって、『おかみさま』ではない。美豆神社に祀られている『おかみさま』は形だけのもので、信者たちは存在しないものを信仰している。その祈りは『みつちさま』には届かない。しかも、霊力のない巫女に神意は伝わらない。だから、巫女不在になると『みつちさま』によって、菟上家は滅ぶのだろう。

 叶は、舞いながらとりとめなく考え耽っていた。

 水葉が壊したのが『みつちさま』の祠とご神体であれば、美千代やその年代の分家は、『みつちさま』の祠の残骸を水底に沈めて、明治時代に移動させたと嘘を吐いた。水葉が破壊した後、正式な手順で移したのであれば問題なかったが、実際はそうではない。

 本来信仰すべき神、『みつちさま』を沼にうち捨てたのだ。これが祟らないわけがない。そう考えると、水葉の死がトリガーになったとは考えにくい。

 水葉の死を利用したのは、『みつちさま』のほうなのか。しかし、祟りを具現化したのは水葉の悪霊で間違いない。

 では、みつちさんは何だ。おみず沼に封じ込めないといけないほどの存在なのだから、菟上家にとって脅威なのはみつちさんなのでは?

 考え込んでいる間に、太鼓の音は止んでいた。

「ずいぶん、様になってきたね」

 一夜が感心した様子で叶を見た。

 まだトランス状態になるほどではなかったようだ。それでも、かなり長い時間、舞っていたせいか、少し息切れする。

 一夜がばちを脇に置き、家政婦が煎れた茶を飲みにキャンプ用折りたたみテーブルへ寄っていくのが見えた。

 天水がパイプ椅子に座って腕を組み、二人の儀式の様子を眺めている。当日の彼の役目は祭文奏上だ。すでに覚えているので、練習に加わらなくてもいいと考えているのだろう。

「徹夜しなくても大丈夫そうだな、区切りの良いところで休んでいいよ」

 叶の舞を見て安堵したのか、天水が告げた。

 叶も神楽鈴を祭壇に置いて、一夜と並んでテーブルに用意された茶を口にする。

「明日は朝一番で祈祷場で鎮魂祭をおこなうからね」

 天水の言葉に叶は頷き、先ほどまで考えていたことを天水に提案する。

「あの、廃墟の道祖神も鎮魂祭に合わせて修復しませんか」

 天水と一夜が浮かない表情を浮かべる。

「まさか壊れたままにはいかないし、水葉さんの慰霊碑も建てるんですよね? ついでに修復してもいいんじゃないですか」

 叶の言うことに反論する理由がなかったのか、天水が、

「そうだな……、慰霊碑を建てるし、修復できないわけじゃないしな」

 一夜が口を挟む。

「明日は無理だと思う。二、三日かかるんじゃないかな」

 叶は今のところ、それで十分だと思った。

「慰霊碑と同時で修復するより、できるだけ早いほうがいいかも」

 天水が叶の言葉に納得した様子だ。

「壊れたままなのも見た目が悪いしな」

 天水が納得したのなら、一夜に反対する理由はないようだ。

 明日、一回目の鎮魂の儀が終わったら、業者に連絡しようと約束してもらい、今夜は明日の為にしっかり睡眠を取ることになった。



 足裏が冷たい。

 最初に感じたのはそれだった。ひたひたと脚に打ち寄せる浅い波。

 見通すこともできない闇、冷たい夜気。湿った水の匂い。ずんと重たい湿気。

 寒くはない、むしろ蒸す、それなのに足裏だけが自棄に冷たい。

 冷たい感覚が足裏だけでなく、くるぶしから脛にまで及ぶ。空気が幾重もの薄絹のように感じられて、進もうとする歩を妨げる。

 遠くから少女の含み笑いがいくつも響いて聞こえる。その笑い声に反応して、なんだか、これから楽しいことが起こる予感がしてくる。

 心地良い、夜更け。月明かりもない、塗り込められた闇に、星のように明るく、外灯が点っている。

 呼ぶ声はますます耳元で縮み膨らみ繰り返される。含み笑いが周囲を取り巻いて、早く早くと急かしてくる。

 ガクンと体が傾いだ。両肩が重たい。だれかが背後からしがみついている。

 そこでようやく、叶ははっきりと目を見開いた。

 だれがこの楽しい気分を台無しにしたのだ。その正体を見ようと、体に巻き付く腕を見た。

 黒地の袖からスッと伸ばされた白い腕。桜色の爪もはっきりと見える。闇色に沈む風景の中、腕だけが鮮明に色を放つ。

「叶」

「叶」

 おみず沼から呼ぶ声がするのに、腕が絡まっていて身動きが取れない。

 あそこに行かねばならないのに、腕に動きを封じられてこれ以上進めない。

 あそこに行きたいのに……!

「カナウ」

 暗く低い声が叶の名を呟いた。耳元で囁かれた冷たい声に首筋が凍る。悪寒が全身に走って、叶の意識は覚醒した。

 足を止めて、自分が今どこで何をしているか、周りを見渡し、足下を見た。

 冷たい波が脛に当たる。感覚でしか、物事が捕らえられないけれど、叶は確かにおみず沼の畔から鳥居に向かって、沼の中に入っていくところだった。

「なに、なに、なに……?」

 混乱して、肩に回されていた腕のことも、始終聞こえてきていた呼ぶ声のことも、何もかも忘れて、叶は岸辺に駆け上がった。

 下半身がずぶ濡れだった。濡れたパジャマが脚にまとわりついて、気持ち悪さが残る。

 どういうことか理解できないが、寝ぼけていただけにしては、おみず沼に入ろうとしていた理由にはならない。

 けれど、今すぐここを離れたほうがいい、という判断はできた。

 叶は舗装された遊歩道へ出て、ひたすら早歩きで屋敷へ向かう。足裏が自棄に冷たくて痛いのは素足だったからだ。

 夢遊病のように、名前を呼ばれて外に出たとしか思えない。名前を呼んだのはきっとみつちさんだ。

 ここで、やっと自分に絡みついた腕のことを思い出す。腕の持ち主も自分の名前を呼んだ。「クルナ」と言った声にそっくりだった。

 あの声が、まるで自分を助けたように感じるのは何故だろう。

 すんでの所でおみず沼に入水しかけた。今頃になって恐怖心が湧き上がってくる。

 これ以上、ここにいると自分は殺されてしまう——。

 叶は開け放たれた玄関から足音を忍ばせて中に入り、風呂場でパジャマを脱ぐ。どうやって逃げ出すか考えながら、部屋に戻った。




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