5
「何故、希が逃げ出したと分かるのです」
叶は失敗したと思って口をつぐんだ。
美千代が諦めたように顔を俯ける。
「希がいなくなったのは婚約したすぐあとなのです。それまで何にも不平を言わなかった……。嫌がりもしないどころか、一夜のことを気に入っていた様子でした。けれど、この婚儀は絶対におこなわねばならないことなのです。菟上家当主の義務なのですよ。結婚してかりはらの役目を全うしたら、後はあなたの好きになさい。かりはらさえできれば、充分ですからね」
「かりはらって何ですか!」
頭に血が上って叶は勢いよく立ち上がった。
「結婚しろって、勝手に決めないで下さい。結婚も私が————」
言い終わらないうちに、座卓の上の湯飲みが、さーっとスライドして卓上から落ち、あっという間に畳に茶が染む。
何が起こったか、一瞬戸惑ったが、勢いに任せて叶は続ける。
「とにかく、結婚は私が決めます! 私、帰りますから!」
叶は感情のままに部屋を飛び出して、足音を立てながら、早足に希の部屋にハンドバッグを取りに向かった。
バッグを肩に掛けて車のキーを取り出すと、きちんと揃えられた自分のスニーカーを履いて、雨が降り続けていたが気にもせず飛び出した。
ばらばらと大粒の雨が頬を打つ。
あっという間に髪が濡れそぼり、ぺたりと首に張り付いた。額から雨粒が垂れてきて、瞼を伝って頬に落ちる。目をしばたかせ、自分の車を探し、ハンズフリーでドアを開けた。助手席にバッグを投げ入れて、ドアを閉める。
雨で冷えた車内に、濡れそぼった体から湯気が立つのが見えた。エンジンをかけて、思わずエアコンを暖房に切り替える。思った以上に寒くて、今が梅雨の時期とは思えなかった。
ハンドルを回し、縦列駐車している車のタイヤを切り返そうとしたとき、ありえない異音とともにガクンと車体が揺れた。
「え?」
エンジンはかかる。けれど、砂利にタイヤが滑っているのか、それとも何かが挟まっているのか、スタックしたように空回る。車体がガツガツと不安を煽る音をさせた。
叶は不審げに車を降り、体をかがめてタイヤを見て、「はぁ? 何これ!」と声を上げた。
ずぶ濡れになりながら、ズタズタに刃物か何かで切り裂かれたタイヤを呆然と見ていた。
菟足村に行けば、なんとかなるんじゃないか。バスが通っているかも知れないし、タクシーだって呼べるだろう。何なら、村から二十分離れた
県道まで出たところで息が上がってきて、一旦立ち止まり、周囲を見渡すとガードレール越しに廃墟があった。遠目に見える左手にはせり出した畔と鳥居がある。
菟足村への道は左右どちらにあったか、叶はバッグからスマホを取り出した。バッグに入れっぱなしだった折りたたみ傘を広げて、今更だが雨を凌ぐ。ポタポタと髪から雫が垂れて、スマホの画面に滴った。
防水のスマホで良かった、と思いながら地図アプリを開いて、自分の位置を確認した。どうやら左の遊歩道を行けばいいようだ。
こんな雨の中、公道を通る気がしなかった。どうしても魔のS字カーブで
だれも自分を追ってこないのを確かめてから、再び歩き始める。傘で前方の視界が半分遮られていて視界が悪い。雨で景色がけぶって、さらに見通しが利かなかった。
「待って、叶さん」
背後から一夜の声が叶を呼び止めた。雨の中、追いかけて来たのだろう。叶は険のある声音で、
「私、だれがなんと言おうと戻りませんからね!」
と、言いながら振り返った。
ザァッと降りしきる雨のカーテンの向こうにはだれもいなかった。
「え?」
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