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 呪詛とは、霊力がなくとも形式通りに作り上げて効くものと、強い霊力によって作り上げて効くものとがある。

 水葉が使うのは後者だ。霊力のないものがいくら憎いと思っても、その憎しみは相手にほとんど届かずに終わる。

 水葉には失敗するということがない。ただ、残虐非道な依頼をしたのがだれか分からないので、その人間には呪いが届かないかも知れない。しかし、呪いたい相手の体の一部や持ち物があれば、呪いはその持ち主に必ず届く。

 呪いたいものの体の一部はこの手にあった。おそらくすでに男たちは何らかの形で報いを受けていることだろう。呪詛を実現させる程の力を、祠に祀られた古い神は持っているのだ。

 たしかに、水葉ほどの霊力があれば、体の一部や持ち物がなくても、目的のものに辿り着いて呪うこともできるが、リスクがある。

 何もないところから何かを起こすことは、ことわりに反している。その理をねじ曲げて呪詛を発動させれば、水葉は何かを代償にせねばならない。その代償がどれほどのものか、全く分からないから、呪詛とは恐ろしいまじないなのだ。

 それに気付いたとき、全ての血が体から抜けてしまったような気持ち悪さに陥った。

 こんなことがあってはいけない、と水葉はガクガクと震える。それでも、この事実はなかったことにはならない。

 大叔母たちに町に出ると言って、水葉のことなど知らない産婦人科を訪れた。そこで妊娠しているという診断を聞かされたのだ。検査結果を知ったときは絶叫しそうだった。声や思考よりも先に滂沱のごとき涙がこぼれ落ちた。これほどの涙が自分の目から迸るとは思いもしなかった。

 この腹にいる咎の子はすぐに殺さねばならない。堕ろすしかない。それしか頭に浮かばなかった。

 異物でしかないものが、神様のかりはらになるはずの子宮に巣くっている。虫のような穢れたものが二十年大事にしてきた場所を荒らしている。

 しかし、堕ろすとなると、かりはらに傷を付けてしまうかも知れない。しかも、大叔母に金銭の管理をされているので余計な金を持ち歩けなかった。

 日帰りで堕ろすことも可能らしいが、体を壊す可能性があると言われた。

 喉から低いうめき声を漏らしながら、病院のトイレの中にうずくまった。気持ちが悪くなって吐き気がする。そのまま和式トイレに吐き戻した。

 神託を受けて三ヶ月。『ウツシミナベシ』は、この世の身ならば——文蔵とならばと言うことだ。

 文蔵と契り、子を成すのは構わない。巫女が神様を祀るのと同じように、宮司が『みつちさま』を祀っているからだ。両家の結婚は神様と『みつちさま』のそれと同じ。神様を祀る菟上家の先祖が定めた取り決めなのだ。そうやって、菟上家は巫女の血を守ってきた。

 文蔵との婚儀は明日に迫っている。

 全身総毛立ち、恐怖に震えるしかない。毎日通い続け完成させた呪詛で、男たちには報いが下ったろうが、唆した人間にはわずかな傷も負わせていない。

 無性に憎い。あの日から何もかもがおかしくなってしまった。

 どうしたらいいだろう、と水葉は両手で体をかき抱く。心臓の鼓動が早くなり、冷や汗が額に浮いてくる。過呼吸で倒れそうだった。

 憎い、という言葉だけが思考を埋め尽くす。こんなことになってしまったのは、全て男たちを唆した人間のせいだ。

 何時間トイレでうずくまっていただろうか。とうとう外からノックされ、女性の声で、「大丈夫ですか?」と問われた。

 まだ気分は悪かったが、水葉はよろけながら立ち上がり、トイレの鍵を開けた。

 神様のかりはらになれず、咎を孕んでしまった、とそれだけしか考えられなかった。



 屋敷のものが皆寝静まるまで待ち、巫女装束に着替えた水葉は、屋敷を抜け出した。手に金槌を持ち、足袋のまま林道をひた走る。古い祠の前に立ち、石の扉をずらして開け、中にあるご神体の石を取り出した。

 金槌を持った手を振り下ろして、思い切り石を金槌で打った。ガキンッと固いものと金属がぶつかる音が響く。何度も何度も打ち据えながら、憎しみをぶつけ続けた。

「死ね! 死ね! 末代まで祟ってやる! 死ね!」

 半狂乱で唱えながら、石を叩き割って粉々にした。

 分厚い平らな石を組んで建てた石祠も同様に、叩き壊した。一槌で祠の屋根が割れた。もう一槌で台座が割れた。すさまじい怨念を込めて力の限り振り下ろす鉄槌に、ありえない力が憑依している。

 優雅で美しい顔や姿は、まるで真蛇しんじゃか鬼に成り果て、人としての姿もあり方もかなぐり捨てていた。

 全て粉々にしたあと、振り袖のたもとからロープを取り出した。着物を振り乱しながら、畔からおみず沼に入り、鳥居の下に立った。

 ロープを鳥居の貫に引っかけて自分のほうへ引き下ろす。輪を作り、ロープに掴まって、蛇のように柱に足を巻き付けて登ると、ロープの輪に首を掛けた。

 咎を孕んだと血の涙を流しながら、遺書を残して屋敷の自室に置いてきた。だから、もはや思い残すことはない。

 遺書には、『咎の子を孕んだ。もう神のかりはらではなくなった。こんな目に遭わせたやつが憎い。必ず末代まで祟り殺す』と自分の血で書いたが、これを読んだ人間で心当たりのあるやつは祟られたことを知るだろう。

 死して鬼となり、一人でも見つけ出して、いや、全ての人間も漏らさず探して、祟り殺す。

 何もかも憎い。憎くてたまらない。憎い。恨めしい。だれだ。おまえか。必ずおまえを見つけ出す。見つけて祟り殺してやる。

 柱から足を離した途端、水葉の耳に頸椎が折れる音が聞こえた。露わになった白い太腿に赤い血が垂れる。激しく足をばたつかせていたが、そのうちに水面を蹴る力が弱まり、ビクビクと痙攣したあと、水葉は真蛇の形相で絶命した。

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