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 遺書の内容を伝え終え、叶の処遇が定まり、立て続けの葬儀もやっと一段落付いたところで、ぞろぞろと分家の親族は帰っていった。

 叶は広縁のガラス障子が嵌まっていた敷居をしげしげと眺めた。障子は単に嵌まっていたのではなかった。一度持ち上げて内側に外さねばならない。

 ということは、一斉に障子が外れて倒れると言うことは普通ならできない。できたとしたら障子は内側に倒れるはずだ。それなのに一斉に外側に倒れた。

 そこに考えが至り、叶はぞっとして震えが走った。確かにここには尋常でないものがいて、叶の意思を挫こうと邪魔をしている。

 その存在が、あの蔵の夜に現れた異形のものだ、と叶は直感した。

 今まで叶の前に現れた幽霊たちは、どれも黒地柄の振り袖を着ていた。これで菟上家の巫女に関係する幽霊だと分かる。

 氷川家に現れた濡れた足の幽霊、叶に「クルナ」と囁いたのは希なのだ。今の状況になることを知っていて叶に警告していた。しかし、叶にはその真意が分からなかった。そのせいでとんでもない目に遭っている。

 雨の日に現れては、叶に恐怖心を植え付けていたのはみつちさんだろう。おみず沼がないおかげで、氷川家にいた頃は死なずに済んだ。今はそれも分からない。

 おみず沼の鳥居で見た幽霊は間違いなく水葉だ。背が高いと思っていたのは錯覚で、実は首を吊った姿を見たのだ。だから首が鳥居の貫部分にあって、爪先が宙に浮いていた。

 では、蔵に現れたものはだれだろうか。ずぶ濡れの足の幽霊はもちろん希だ。ずっと付いてくれているのは、もしかすると叶のことを気にかけているからだ。歩き回って叶を覗き込んだのは美都子だ。そして座卓下から這い寄ってきたのは、間違いなく悪霊化した水葉だ。

 では最後に自分の中に入ってきた黒い靄は何だろう……。

 屋敷の奥に消えた黒い異形と、この黒い靄は同じものだと感じた。少しずつ形が見え始めているように思ったが、いつも一部だけなので全容はわかり得ない。

 叶が考え込んでいると、一夜が話しかけてきた。

「どうしたの」

 叶は顔を上げて、広縁の掃き出し窓を見た。雨戸が閉められて鏡面になったガラスが二人を映し出す。勝手に話を進めてしまった天水と一夜に対してわだかまりを持っている。その気持ちが叶に疑いを持たせてしまう。

「まさか、車のタイヤに傷を付けたの、一夜さんじゃないですよね?」

 急にそんなことを言われて、一夜は面食らったような表情を浮かべた。

「違うよ。どうしてそう思ったの」

「天水さんも一夜さんも、私に帰ってほしくなかったからじゃないですか?」

 一夜が面白そうに笑う。

「例えそうでも証拠なんてないし、ましてやタイヤを修理したんだから、いたずらするなんて意味がないよ」

「いたずら……? あれは度が過ぎます!」

 もしかすると、足止めをして時間稼ぎがしたかったんじゃないか、と叶は思った。

 遺書開封の場に叶にいてもらわねばならなかったのだ。

『巫女不在にしてはならない』という言葉は誇張ではなかった? ただ、叶が巫女になったとしても、巫女がいない状況と変わらないのではないか。自分には強い霊力、希と遜色のない力があるとは思えなかった。

 けれど、もし霊力があるとしても、菟上家にいること自体、不吉としか言いようがない。

「じゃあ、一夜さんはだれが私の車のタイヤ、傷つけたか分かりますか?」

 一夜が素直に答えないのは分かっているし、こんなことを今更聞いても埒があかないのも承知しているが、少しでも情報を集めて、ここから逃げ出す方法を考えたかった。物理的に距離を稼ぐ為に車で逃げても、きっと人でないものが追ってくるから。廃墟の結界が破られているのは偶然じゃない。修理されなかったのも実際のところ、直す気などなかったのだ。

「もしも、養父さんを疑っているなら、それは違うと思うよ。君は自覚ないけど、菟上本家だけじゃなく、分家も疑ったほうがいい。巫女不在で、昔、菟上家が祟られたときのことを覚えているひとは多いから」

 だから、君を巫女にしたい人間はたくさんいるんだ、と一夜が言った。

 叶はしばらく黙ったまま、一夜を睨みつけていた。

「君を怒らせたなら、謝るよ。君がここに来て、不本意なことばかり押しつけられて腹を立てる気持ちも分かる。実際、俺も最初はそうだった。ただ、希さんとの婚約が決まったのは、俺がみつちさんを祓ってもらったのがきっかけだったんだ」

 叶は疑わしげに、一夜の話を聞いていた。

「でも、美千代さんに勝手に決められたことは変わらないんじゃないですか」

「結果的にはそうなったけど、それまでの間に俺と希さんはよく話をするようにはなってたよ。もちろん、俺が天水の養子に入ったせいもあるけど」

「じゃあ、好きでもないのに結婚を決められたわけじゃないんですか」

「俺は、俺なりに希さんのことを好きだったけどな」

 それなら、何故その思いを抱き続けずに、美千代の言いなりになんかなるんだ。叶は希と一夜が恋人同士だと信じて、叶との婚約を承知したことを、死んだ希への冒涜だと憤慨した。

「そうだったら、かなり失礼ですよね?」

 叶自身に対しても、いい加減な気持ちを向けられては敵わない。

「そんなことを言われても、俺にとって希さんはもう一年前に亡くなってたんだから、仕方ないよ。気持ちが昔みたいになれなくても」

 一年の空白が、一夜の希への思いを冷めさせるには充分すぎるのか。だれかに恋されて恋愛をする関係を持ったことのない叶には、一夜の気持ちはとても冷たいと感じられた。

「それに、美豆神社の宮司にとって、菟上家の巫女は、だれであろうと花嫁でなくてはならないんだ。しきたり以上の関係があるんだよ。それは、宮司を継いだ俺にはよく分かる」

「しきたり以上の関係?」

 叶は、首をかしげた。説明してもらおうと一夜を見上げた。

「君さ、まだ家に帰ろうと思ってる? 逃げたりしたらどうなっても知らないからね」

 脅しとも取れる言葉に、叶はあっけにとられた。もちろん家に帰るつもりだ、と言おうと口を開きかけたが、一夜が後ろを振り返ったので、釣られて叶もそちらに目をやった。


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