とがはらみ ---かりはらの贄巫女---
藍上央理
とがはらみ ---かりはらの贄巫女---
シーン1
1
気がつけば、降りつける雨の中、必死で薄暗い林を走っている。
薄闇に乱立する原生林の木々の幹が黒く浮き上がり、よろめく体にぶつかって今にも転んでしまいそうだ。
ここは沼沿いの林だ。視界は暗いが、自分の着ている着物の細部まで分かる。黒地に打ち出の小槌や手鞠などの縁起物の刺繍が施されている晴れ着だ。視界の端で振り袖が翻っているのが見える。
足が痛い。よろけた拍子に草履が脱げてしまったせいだ。ぬかるんだ落ち葉、枯れ枝や小石、出っ張った木の根を足袋が踏みつける。
音も聞こえる。林を駆け抜けていくときに足が踏みしめる草の音が、薄闇に響いている。自分が立てる音に鳥や動物の声すらかき消される。
山の匂いがする。雨に湿った土の臭い。腐葉土の発酵した臭気が鼻を突く。
息が上がり、喉と肺がひりつくほど熱く痛い。口の中は乾いて、余計に喉の痛みが増す。長い濡れそぼった髪が乱れて、顔にかかって視界が遮られる。
何度も後ろを振り返る。黒い闇の垂れ幕と雨が視界を遮っていて、人影のような木の幹だけが見えている。
林が途切れて、沼縁の斜面が見えてくる。斜面を登るしかなく、躊躇わず、斜面に生える木の枝を掴んだ。
木の枝や木の幹に掴まりながら斜面を登っていく。斜面を登るにつれ、濡れた着物が子供が体にへばりついているように重く感じる。こんな着物、脱いでしまいたいという感情が胸に迫ってくる。雨の中で着物が着崩れてしまうほど、死に物狂いで公道を目指していた。
夕闇に慣れた目に、ようやく人工物が見えてきた。あと少し、と必死で崖を登り、ガードレールに辿り着く。これを乗り越えれば公道に出られる。公道を辿れば、少なくとも人のいる場所に行けるはずだ。
躊躇なく、ガードレールを乗り越えて公道に出た。
カッと右方に光が生じたのは一瞬のことだった。
ブレーキ音と、鈍い衝突音。何もかもがゆっくりと視界に入る。体が宙を飛んでいる。何分もそうして浮いているような感覚に陥った。
次の瞬間、頭が割れるように痛み、火が生じるような熱が体を包み込んだ。激痛が炎に焼かれるように全身に走る。指一本動かせず、半眼の瞳に何かが垂れてくるのを拭えない。激しい頭痛に目がくらんでいる。胸が苦しい。息ができない。痛い、痛い、痛い……。
何が起こったか理解できなかった。耳は聞こえず、声も出せない。景色もライトを真正面から浴びて、目が眩む。
痛みに感覚を奪われていても、人が近づいてくる気配は感じられる。覗き込むようにしてだれかが側に立った。何か言っているようだが、頭痛で耳鳴りが止まず聞こえない。
全て気配で察するしかなかった。
痛い。痛い。痛い。痛い。
だれか。
痛い。痛い。痛い。痛い。
助けて。
痛い。痛い。痛い。痛い。
早く……。
痛みで意識が飛びそうだ。目をつぶれば、多分すぐにでも。
毛布か何かを体に掛けられ、引きずられる。どこかに掴まって抵抗したいが、手足が痺れて力が入らない。体に固いアスファルトの感覚と振動が伝わってくる。ゴトンと固い地面に後頭部を激しく打ちつけた。気が遠くなりそうなくらい痛い。頭が割れるようだ。
ふいにフッと体が軽くなった。と思った瞬間、全身を冷たいものが包み込んだ。沼に落とされたのだ。
さらにがんじがらめに着物が体に巻き付き、もがきたくても手足が思うとおりにならない。
冷たい水に体が沈んでいく。
目を開けると、黒い水面が頭上に揺らめき、肺から吐き出される水の泡が塊になって、螺旋を描きながら水面へ向かって上がっていく。はるか水面の向こう側に明るい光が見えた気がする。その光にすがろうともがくが、着物が巻き付いて身動きが取れない。
死にたくない!
もがけばもがくほど体が沈み、死が近づいてくるのが分かる。それがとてつもなく恐ろしく、死に物狂いで叫ぶ。
死にたくない……!
大きな空気の泡が口から吐き出されて水面へと上がっていく。
肺が痛くなるほど苦しくて、辛うじて息を吸うと、ごぼっと水が気管に流れ込んだ。咳き込む力がない。痛くて苦しくて、脳みそがその感覚でいっぱいになる。
空気の代わりに水が肺と胃に流れ込む。水を吐き出そうとあがくが、思うようにいかない。だんだんと視界は暗くなっていき何も見えず、頭はますますぼんやりとして、自分が何故走っていたのか、そのことを考え——————。
「ひぃぃいい……!」
安堵する前に強い吐き気が込み上げてきて、ベッド脇に置いたくず入れに頭を突っ込んで
痛みと苦しさとで意識が絡まった糸のように混乱し、追い詰められて目を覚ます。夢の中で溺れたのに、肺と胃に入ったありもしない水が喉に込み上げてきて、吐いてしまうのだ。現に、吐いたものはほぼ水のような胃液だけだ。胃を絞られるような吐き気が辛くてしばらく眠ることも出来ず、目頭に涙がたまる。
嘔吐物で気持ち悪い口中を水で濯ごうと、くず入れから身を起こした。
汗でパジャマがぐっしょりと濡れて、梅雨の湿気とはまた違う空気の重さを感じる。叶は汗ばんだ額と首筋にへばりついた髪を手でかき分ける。汗をかいているわりに肌はひんやりと冷たい。
少し開けた窓から微かに風が入ってくる。閉めたカーテンがゆらゆらと揺らいでいた。
大学に入学した一年程前から始まって、悪夢は今も続いている。
だいたい、夢の詳しい内容すらつかめない。夢の中で感じ取ったのは、何かから逃げていること。車か何かにはねられたこと。最後に溺れて死んだこと。
叶はすっかりめげていた。睡眠導入剤を心療内科で処方してもらっても、週に二回くらいはやはり見てしまう。
今夜はもう眠れないと観念し、ベッドから起き上がって、電灯のプルスイッチを引いた。
ぱっと明るくなった部屋の壁に親友との写真が貼られ、可愛い壁掛けの棚にはぬいぐるみやおしゃれな鉢植え、机には読みかけの娯楽本や参考書。大学生の女の子らしい、部屋だ。
ベッドの
立ち上がり、窓に寄っていってカーテンを開ける。外は薄曇りで月は隠れているが、雨は降っていない。今季の梅雨はとても長いとニュースで言っていた。まだ五月なのに梅雨入りらしい。それを聞いただけで、叶はあることを思って憂鬱になった。
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