第35話 発露する力

 ーーそれは、不可思議な光景だった。

 強く願って最後の一文字を書き終えた瞬間、羊皮紙の上で文字が発光する。

 白く青く光る文字が、ぺりぺりと紙から剥がれてゆく。ロザリンドの小指の先ほどの小さな文字が掌ほどの大きさとなり、静かに流れるように飛んでいく。

 文字は連なり列をなし、明確な文章のままに眼下に広がる街へと一目散に流れていった。


「後を追うぞ」


 静かに言ったカラドリウスは高度を下げ、街の一角に降り立った。

 土埃と瓦礫の山、そして血の匂いが充満していた。

 未だ鎧豹よろいひょうとの戦闘は激しく、周囲は混乱している。

 だがそこに一石を投じるかのように、宙から文字が降ってきた。

 文字は踊るように旋回した後、鎧豹の間を駆け抜ける。するとあれほど暴れ回っていた鎧豹たちがぴたりとその動きを止めた。襲い掛かろうと上げていた前足を下げ、人間を喰らおうとしていた顎を閉じて牙をしまう。

 鎧豹は明らかに文字を目で追っていた。その様子は警備兵からしてみたら不可解なものだろう。常識として考えれば、魔獣は文字を読めず人語を理解しない。にもかかわらず、鎧豹は確かに文字を読んでいるかのようだった。

 明らかな戸惑いの空気が場に流れる。建物のそばからロザリンドの見ている先では、レクスの姿もあった。所々負傷しているようだが大怪我は見当たらない。変装用の色付きの眼鏡をかけ、青い長髪を靡かせたまま、肩で荒い息をしながら油断せず鎧豹の動きを注視している。

 無防備になった鎧豹に誰も手出しをしないのは、正体不明の文字を警戒しているからだろう。あれが果たして人間たちに有害なのか無害なのかがわからず、はかりあぐねている様子だった。

 やがて一頭の鎧豹が踵を返して去っていく。それを追うように、一頭、また一頭と、まるで急激に人間に対して興味を失ったかのように街から出ていった。


「なん、だ……?」

「奴ら、急にどうしたんだ……」


 呆然と呟く警備兵は鎧豹の姿を見つめていたが、レクスだけは空を見上げ、それから周囲をキョロキョロとしはじめた。


「レクス」


 ロザリンドが物陰から姿を出して小さく名前を呼べば、レクスは振り向いてくれた。


「ロザリーにシロさん。無事だったか」


 ほっとした中に戸惑いが混じっている声。警備兵たちは鎧豹の脅威が本当に去ったかどうかを確かめるべく、街の警備に人手を割くようだった。

 ロザリンドとの距離を縮めたレクスは確信を持って尋ねてきた。


「それで……さっきの文字は、もしかしなくてもロザリーの仕業か?」


 これに対してロザリンドは、首を縦に振った。


***


「やあ、君、鎧豹の食い止めに手を貸してくれてどうもありがとう。随分と腕が立つようで助かったよ」


 ロザリンドたちは警備兵たちが行き交う診療所の中にいた。レクスが左腕を負傷していたので手当てのために立ち寄ったのだ。本人は「必要ない」と言っていたが、放っておけば化膿する危険性がある。しっかり手当を受けた方がいいと考えたロザリンドが半ば無理やり連れてきた。

 そこで手当を受けている最中にレクスに向けて投げかけられたのが先の言葉だ。


「見たところ旅人のようだが、運が悪かったな。この辺りに鎧豹は出るには出るんだが、まさか街中まで襲いかかってくるとは……」

「普通なら起こり得ないことか?」

「ああ、前例がない。街道を行く連中が時折被害に遭うんだが、それだって年に数回。基本的に夜間に行動しなければ遭遇することなんてないはずなんだ。一体どうしたことなのやら。まあ、よくわからんが勝手に撤退していったし、人的被害もなかった。不幸中の幸いだな」


 警備兵の言葉にロザリンドが思わず問い返す。


「誰も死んでいないんですね?」

「負傷者はいるが死者はいない。重症を負った者もいないし、鎧豹に襲われてこの程度で済んだのは幸運と言えるだろう。君もしっかり怪我を治すといい。二、三日街に滞在して治療を受ければ快方に向かう」

「よかった……」

「タイムロスだ。そんなに休まなくてももう動ける」


 治療を終えるなり動き出そうとするレクスをロザリンドは慌てて押しとどめる。


「ダメよ、結構な深手を負ってるし、しっかり休んで治さないと」

「だが、そんなことをしている間に使者との距離が開いてしまったら困るだろう」


 ロザリンドは周囲を気にし、声を潜めた。


「シロさんの速度なら追いつくわよ」

「そうかもしれないが……」

「ここで無理して悪化する方が困るわ。レクスは大人しく寝ていて」


 ロザリンドはレクスの上体に手をかけ、ベッドに戻す。大部屋のここには多くの他の怪我人が寝ており、まだまだ治療途中の人もいて騒がしい。レクスは正体を隠すために人前では薄青色の眼鏡をかけているのだが、ここにいたら寝るときにも眼鏡をつけっぱなしにする必要があるだろう。


「場所を変えた方がいいわね。宿を取ってくるわ」


 何か言いたそうなレクスを残し、ロザリンドは診療所を後にする。

 街の中はまだ魔獣襲撃のショックから抜け出しておらず、そこかしこを警備兵が行き交い、街の人は顔見知りを見つけると立ち止まっては噂話に花を咲かせていた。

 耳にするのは大体同じ話。

 知り合いが怪我をした、戦闘現場になったのは住宅街の一角で、家が破壊された人は臨時の住まいをあてがわれること、魔獣が街中まで入り込んでくるなんて前代未聞だということ。

 それらの話を耳にしながら、ロザリンドは駅周辺へと戻ってきた。駅周辺はどこよりも人が多かった。襲撃事件に怯えた客が集っているようだ。進むべきか街にしばらく滞在した方がいいのか、はかりあぐねている人も多い。街道に出て鎧豹に出会したくないし、かといって街に留まり万が一鎧豹が戻ってきても恐ろしい。

 傭兵を連れてはいるものの、魔獣に対抗できる力を持っている者など少ないので当然だ。

 もしかしたら宿もいっぱいになるかもしれない。駆け足で一つの宿に飛び込むと、案の定満室であると告げられてしまった。めげずに次々に宿に入り、なんとか三つ目の宿で一部屋だけ空いていると言われる。迷わず部屋を押さえたロザリンドは、診療所に取って返した。レクスは大人しくベッドに横たわっているが、顔は不服そうである。眼鏡をかけていても表情がわかるようになってきたあたり、ロザリンドもなかなか成長しているようだ。


「レクス、宿の部屋が一部屋だけ取れたの。そっちに移りましょう」

「一部屋? ならそこはロザリーが使うといい。俺はここでいい」

「落ち着かないでしょうし、ダメよ。まだ私と相部屋の方がマシなはずよ」

 少なくともロザリンドの前では正体を隠す必要がない。

「それに今日の出来事や今後のことも話し合えるし」


 レクスは迷っているようだった。しばし黙ったのちに、ゆっくりと頷く。


「確かにそうだな……」

「でしょう? もうすぐに移りたいかしら?」

「ああ、行こう」


 レクスはベッドから這い出すと持ち物の革袋を手にして診療所を後にする。

 医師に宿に行くと告げると、傷の手当てがあるから一日一度は来るようにと言われていた。

 宿の部屋に入ると窓を開け放す。するとタイミングをはかったかのようにカラドリウスが入ってきて椅子の背もたれへと留まった。


「大丈夫? 傷、痛むかしら」

「大したことはない」


 だが負傷した左腕は明らかに動かすのが辛そうだった。ロザリンドはレクスをベッドまで連れていくと、体を横たえるよう促す。レクスはベッドに座り、眼鏡を外すと朝焼け色の瞳でロザリンドとカラドリウスを交互に見た。


「早速だが、先ほど鎧豹の元に現れた文字のことを聞きたい。あれはロザリーの仕業か?」

「……ええ」


 ロザリンドは鞄から魔鳥の羽根ペンと羊皮紙を取り出した。羊皮紙は鎧豹に宛てて手紙を書いたものだ。文字が浮かび上がってしまったので、もうここには何も書かれていない。新品同様になっている。


「カラ様から聞いた『魔の乙女』の話を思い出して、何かできるんじゃないかって考えたの。『魔の乙女』が魔獣や魔鳥と話せたのなら、私は文字で想いを伝えられるんじゃないかって……だから魔鳥の羽根ペンを使って鎧豹に手紙を書いた。そうしたら文字が浮き上がって飛んでいき、鎧豹を囲んだの。それからすぐに鎧豹が撤退した」

「なるほど。正直助かった。あの数の鎧豹相手に街の警備兵と俺では太刀打ちが出来なかった」

「そもそもどうして街中に魔獣が現れたのかしら。街の人の話では、平野や街道に出ることはあっても街までやって来ることなんて前代未聞らしいわ」


 ロザリンドは顎に人差し指をあてて考え込んだ。

 子爵領地のあるトアイユの森にはどちらも出現しなかったので、ロザリンドは魔獣や魔鳥に詳しくない。魔鳥ステュムパリデスの襲来だって誰も予想していない事態だった。

 それなのに、短期間に遭遇しすぎている。

 沈黙を破ったのはロザリンドでもレクスでもなく、カラドリウスだった。


「言いにくいのだがのう、おそらくロザリンド殿が街にいたせいじゃ」

「私が?」

「左様。『魔の乙女』は確かに、魔に連なるものどもを惹き寄せる性質を持っている。誤解せんで欲しいのじゃが、最初に子爵家を襲った魔鳥はおぬしのせいではなく、不幸な偶然じゃったのだろう。じゃが魔鳥の羽根を切り出して加工した時におぬしの力が覚醒した。道具を介して『魔の乙女』の力が呼び覚まされたのじゃ。伯爵の不自然な心変わりに、先ほど見せた不可思議な文字の力……それこそが確たる印」


 カラドリウスの言葉には重みがあり、ありえないと否定できない。

 ロザリンドがいるせいで魔獣が街を襲ったというのなら、あまりにも罪深い。無関係な人々を巻き込み、混乱に陥れ、恐怖を植え付けた。

 知らない内にしでかした己の罪深さにロザリンドの体が震える。


「じゃがのう、ロザリンド殿。そうそう悲嘆するものでもない。先の手紙の力により、鎧豹はもうおぬしの支配下にある。街を襲うことは二度とないじゃろう」

「本当に……?」

「ああ。本当じゃ」


 そこでカラドリウスはぐるんと首を巡らせてロザリンドからレクスへと視線を向ける。


「これはレクスにも覚えておいてほしいのじゃが、ロザリンド殿がいる限り、『魔』のものどもはこれから先も追いかけて来るじゃろう。今日のようなことが起こっても不思議ではない」

「事態を未然に防ぐことは出来ないんですか」

「周辺の魔獣や魔鳥に先に働きかけておければ、あるいは」

「あまり現実的ではないですね……この辺りに俺は詳しくないし、どこに魔獣や魔鳥の巣があるのかわからない以上、それを探すのは時間の無駄です」

「なれば街に迷惑をかけぬよう、立ち入るべきではないのう」

「俺たちの目的は伯爵家の使者から国王宛の手紙を回収すること。なるべく早く、街道で捕まえるしかなさそうですね」


 ロザリンドはテレステアの宿で言われたカラドリウスの言葉を思い出していた。

 『魔の乙女』の力が正しく顕現したのなら、事態は恐らくもっと深刻に、そしてより想像できない方向へと動いていくじゃろうーー確かにその通りになっている。

 街に魔獣が襲来し、レクスは負傷した。魔獣を退けたのはロザリンドの力だが、魔獣を誘き寄せたのもロザリンドだという。自分の知らないところで自分が人々に災いを振りまく存在になっているのではないだろうかと思うと恐ろしい。


(どうして、こんなことに……どうすれば……)


 レクスは気遣わしげにロザリンドを見て、優しい声音を出した。


「ロザリー、この街を出たらしばらくは野宿になるかもしれない。今日はベッドでゆっくり休んでくれ。俺は床でかまわない」

「いいえ、レクスは怪我してるんだからちゃんと休んで。私の方こそ床でかまわないわ」

「女性を床に寝かせるわけにいかない」

「怪我人を床で寝かせるほうがダメに決まってるでしょう。それに……レクスとカラ様はこれからも街に行って。私一人で野宿すればそれで済む話なのだし」

「何言ってるんだ、女性を一人で野宿させられるわけないだろう。街の外の脅威は魔獣だけじゃない、夜盗も出る。野宿が続いたとしても、俺もカラ様も気にしない。言っただろう、放浪している時はその辺で寝るのも普通だったと」


 レクスは負傷していない右手でロザリンドの肩に触れた。


「そんな顔をするな。なんとかなるさ」

「なんとか……」

「方法はあるはずだ。俺もカラ様もいる。一人で思い詰めないでくれ」


 励ます声に、ロザリンドはふぅと息を吐き出した。そうすると肩の力が自然に抜ける。知らない間に随分と体に力が入っていたようだ。


「……ありがとう、レクス。あなたにはお世話になりっぱなしね」

「いいんだ。俺の方こそ、ロザリーには救われている」


 パチリと目が合う、美しい色の瞳。胸元まで伸びた青色の髪が流れ、美麗な顔立ちにはらりとかかっていた。柔和な微笑みが口元にうっすらと浮かんでいて、全てが絵になる。

 ふと今の状況が不思議に思えた。

 第二妃譲りの類い稀な美貌を持つ王弟殿下と、決して上等ではない宿の一室で見つめ合うなど、一体どうして想像できるだろうか。

 身分を隠した王弟アレクシス殿下は軽装に身を包み、腕に怪我を負い、それでもなおロザリンドという厄介な存在を支えてくれようとしている。

 なぜなのだろう。

 領地を危機から救ってくれただけでも計り知れない恩があるのに、この上まだ手を貸してくれることにたまらない感謝を感じる。


「早く手紙を回収して、この件を終わらせましょう」

「そうだな」


 伯爵の使者を捕まえ、手紙を回収する。

 そうすればひとまず安心できる。

 目先の目的を再確認した二人を、カラドリウスが静かに見守っていた。

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