第21話 ヴェロニカ・シュベルリンゲン伯爵令嬢①

「お父様、ランカスター子爵領地に援軍を送る話はどうなっているのでしょうか」


 ヴェロニカ・シュベルリンゲン伯爵令嬢は、領主館にある父の執務室でもう百回は口にしたであろう問いを再び放つ。

 父はヴェロニカと同じ青い瞳でこちらを見てから、表情も変えずに返答した。


「何度も言っているだろう、ヴェロニカ。あの魔鳥は普通ではない。もはや災害だ。我が領の兵、全軍を送れば鎮圧もできるであろうが、それは不可能。領地の防備を空にする訳にはいかない」

「ですが、それでは子爵領を見捨てると言っているも同然なのでは」

「…………」

「あれほど付き合いの深いランカスター家の人々を、見捨てるのですか? それは人として許されない行為ではないのですか」

「ヴェロニカ。物事には優先順位というものがある。私はシュベルリンゲン伯爵領を守ることを第一に考えねばならない。余力があり、勝つ見込みがあれば派兵もしようが、それが叶わぬとなった今むざむざ兵を送るわけにはいかないのだ」

「ですが、それでは、フィル様とロザリーどうなってしまうのですか」


 ヴェロニカの脳裏に、ランカスター家の兄妹が思い浮かぶ。穏やかで人の良い彼らが今立たされている窮地を思うと、心臓が凍りつくかのようだった。

 父は静かに首を横に振った。


「彼らの無事を神に祈るといい、ヴェロニカ」


 話はそれで、おしまいだった。

 肩を落としたヴェロニカは一礼してから父の部屋を退出する。すごすごと廊下を歩き、ふと立ち止まって窓の外を見た。


「…………」


 伯爵領館から南の方角を見る。

 そこに広がっているのは伯爵領地の街並みだけれども、ヴェロニカの思考はもっと遥か遠くーーランカスター子爵領地のあるトアイユの森まで飛んでいた。


「フィル様……ロザリー」


 ヴェロニカはドレスの胸の前で両手を握り合わせ、愛しい人の名前と、友人の名前を呟く。

 ランカスター子爵家はヴェロニカの生家、シュベルリンゲン伯爵家に比ぶるべくもない。

 領地はトアイユの森と、そこにある一つの小さな街。特産品は羽根ペンのみ。

 肥沃な大地と広大な領地を持つシュベルリンゲン伯爵領は、トアイユの森を挟んで南に広がる大貴族マールバラ公爵家に負けずとも劣らない貴族の家柄だった。

 けれども、それが何だと言うのだろうか。

 ヴェロニカはランカスター家の人々が好きだった。職人気質の実直な人柄、素朴な親しみのある人々。とりわけ、幼少期より仲良くしているフィルとロザリンドはヴェロニカにとって特別な存在で、フィルにはいつの間にか恋心を抱いていたし、ロザリンドは無二の親友だった。

 そしていま、ヴェロニカの大切な人々は窮地に陥っている。

 魔鳥と呼ばれる鳥がトアイユの森に巣食い、子爵領地を食い荒らしているという話は耳にしていた。そしてシュベルリンゲン伯爵家からも派兵をしたが、あえなく撤退したという話も。

 連中は数が多く獰猛で、鍛えられた伯爵家の私兵すら容易く食い破ってしまうのだという。


(なら、子爵領地の人なんてあっという間に全滅してしまうわ……)


 魔鳥の襲来からもう一年が経った。

 ヴェロニカの父は、一度の派兵で諦めた。伯爵領館のある街からランカスター子爵領までは結構な距離があるため、ここまで魔鳥が襲ってくる様な事態にならない限りもう動く気はないらしい。何度ヴェロニカが嘆願しても、もう兵は出さないの一点張りだった。

 ランカスター子爵家の人々はどうなっているのだろう。

 フィルは、ロザリンドは、生きているのだろうか。

 彼らの笑顔を見られる日は今後来るのだろうか。

 鬱々とした気持ちでヴェロニカが窓の外を見続けていると、不意に扉を叩く音がして、続いて使用人から声がかけられる。


「失礼いたします、お嬢様。ロザリンド・ランカスター子爵令嬢がお見えでございます」

「!」


 かけられた言葉が一瞬信じられず、目を見開く。続いて、考えるより先に言葉を発していた。


「すぐ行くわ、応接室にお通ししてちょうだい!」


 ヴェロニカは支度を整えてすぐに応接室に向かった。はやる心が抑えられない。

 ドレスの裾を摘んで、なるべく急いで廊下を進む。

 一体どんな理由で会いにきたのか、会ったら何と声をかけるべきだろうか。

 援軍を送れなかったことへの謝罪か、それとも無事に生きていることを喜ぶ言葉をかけるべきか。

 さまざまなことを考えながら階段を降り、応接室の扉の前で立ち止まると、深呼吸して気持ちを落ち着かせ、扉をノックしてからノブを回して部屋へと入る。

 そうして中にいたロザリンドを見た瞬間ーー考えていた言葉など全て吹き飛んでしまった。

 ロザリンドは、見る影もなく焦燥した見た目になっていた。

 以前は腰まで伸ばしていた艶やかなセピア色の髪はざんばらに短く切られ、頬はこけて全体的に痩せており、身につけているワンピースがだぶついている。服の裾から見える鎖骨や手指は生傷だらけで、特に手は酷い有様だった。皮膚が爛れて剥けてしまい、赤く血が滲んでいるところさえもあった。

 今まで幾度となく想像はしていた。日夜、忘れた時なんて一日もなかった。

 けれど実際に目にしてしまうと、のうのうと暮らしていた自分がなぜか無性に嫌になり、無力な自分を呪った。

 ヴェロニカはロザリンドの元へと駆け寄ると、立ちあがろうとする彼女を手で制し、その荒れた手を握る。


「ロザリー……ごめんなさい……!」

「ヴェロニカ様……」

「こんなに大変な目にあっていたなんて知らずにいて……何の役にも立てなくて、本当にごめんなさい……!」


 涙がとめどなく溢れてくる。こんな謝罪に何の意味もないことなどわかっているけれど、それでもヴェロニカは、友人として謝らずにはいられなかった。

 無意味な謝罪を繰り返すヴェロニカに声をかけたのは、ロザリンドだった。


「……ヴェロニカ様が謝ることは何もありません」

「でも……わたくし、何もできなくて……」

「仕方のないことです。誰にも予想できない事態が起こったのだから。シュベルリンゲン伯爵様は無闇に兵を失うことを危惧しました。当然のことです。それに、どうにか魔鳥を討伐できたので、もう大丈夫」

「討伐できたの? 本当に?」

「はい。フィルお兄様も重症だったのだけど、今はマールバラ公爵様の領主館で治療を受けているところです」

「……公爵様のところで? 信じられないわ。だって公爵様は、あの……」

「身分至上主義。でも、色々あって……。とにかく私もお兄様も無事なので、安心してください」


 以前と変わらず優しげな笑みを浮かべるロザリンドに、ヴェロニカは全身の力が抜けるのを感じた。毎日が不安で仕方がなかった。

 深い息と共に言葉を吐き出す。


「……よかったわ……」

「それで、今日はヴェロニカ様に一つ、贈り物を持って来たんです」

 そう言ってロザリンドは、横に置いてあった鞄から何かを取り出し、テーブルの上へと置いた。長方形の箱だ。ヴェロニカはそれを何度も見たことがある。

「羽根ペン、作ったの?」

「はい」


 ロザリンドが箱の蓋を開けると、そこには、茶色い羽根の大ぶりな羽根ペンが収まっていた。先端が赤みがかっている羽毛は豪華で、見栄えがする。

 ランカスター領地が作る羽根ペンは使い心地もさることながら美しい見た目で評判を博しており、貴族の中で愛用者が多い。ヴェロニカも好んで使っていたし、こうして新作をもらっては社交界で顔が広いヴェロニカが商品の良さを伝えるというのもよくある話だった。

 けれど、この羽根ペンは初めて見るものだ。一体何の羽なのかしらと思っていると、ロザリンドから意外な答えが返って来た。


「子爵領を襲った魔鳥の羽根から作ったペンです」


 ロザリンドはテーブルに置いたペンから目を逸らさないまま、淡々と言葉を続けた。


「たくさん手に入ったから、新たな資源にならないかと思って作ってみたんです。これは私が作った一本。せっかくだからヴェロニカ様に、使ってみてほしいと思って」

「……どうして……」

「魔鳥は、私にとって憎い相手。突然襲いかかって来たあいつらに私は両親を殺されたし、多くの領民も殺されました。でも、だからって全部燃やしてしまえば灰になるだけ。明日を生きなければいけない私たちには、売り物が必要なんです。幸い崖の工房は無事だったから、羽根ペンならいくらでも作れますし」

「そう。……そうなのね」


 ヴェロニカは深く息をついてから顔を上げた。


「わかったわ。ロザリーが作ったこのペン、使わせてもらう。子爵領地からここまで長旅で疲れたでしょう? 今夜は領主館に泊まっていって、ぜひもてなさせてちょうだい」

「いえ、ありがたい申し出ですけど、実はもう宿を取っていて」

「あら、そうだったの。なら、髪を整えるくらいは共にできるかしら? あなたってばひどい髪型してるわよ」

「あぁ……そういえばそうだったわ。忘れていた」

「自分で切ったのかしら」

「はい。魔鳥と戦うのに邪魔だったので」


 ヴェロニカは眉を顰めた。


「ロザリーも戦ったの?」 

「そうするしか方法がなかったんです。両親が死んで兄も瀕死の状態なら、私が先頭に立つしかないでしょう? たとえ無駄死にだとしても、それが子爵家の人間の責任だと思ったんです」

「…………」


 ヴェロニカは知っている。ロザリンドが誰よりも領民と、トアイユの森と、そこに飛んでくる鳥たちを愛しているということを。子爵家の令嬢としてよりも、職人として暮らすことを何より好んでいたことを。

 そんなロザリンドが下した決断の重さと決意の強さに、泣きそうになる。

 丁寧に伸ばして手入れをしていたセピア色の髪が、無惨な状態になってしまっている。

 ヴェロニカはすぐさまベルを鳴らして使用人を呼んだ。


「……誰か、散髪の用意をお願い! ロザリーをとびきり可愛くするのよ!」

 

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