第36話 不可視の妨害
街で三日の休息をとりレクスの腕がどうにか動くようになってから、ロザリンド達はカラドリウスに乗って伯爵家の使者の追跡を再開した。距離は開いてしまっていたが、カラドリウスの神速であれば容易く追いつく。事実、ロザリンドたちは何度も使者に肉薄した。
ただ、一体どうしたわけなのか、接触するまでに至らない。
使者に会おうとすると必ず妨害が入った。
魔獣や盗賊の襲撃、天候不良、理由は様々だが、どうしても使者に会うことができない。
そうこうしているうちに伯爵領を出て山を越えて隣領に使者が入り、そうして王都に続くまっすぐ延びる街道をひた走っていた。
この間にかかったのは十日という予測を超えて、わずか七日。
上空から使者の姿を追いつつ、レクスが切羽詰まった声を出す。
ーー折りしも、天候は雨。上空には雷雲が渦巻いている、不吉な天候だった。
「王都で騒ぎを起こすわけには行かないから、ここで止めないともう後がない」
「ええ」
「このままカラ様に乗っている姿を見られるわけには行かない。先回りして森の中で降り、街道で待ち構えよう」
「わかったわ」
雨に打たれながら森の中へと降り立ち、小さくなったカラドリウスを連れて街道へと飛び出す。
外套のフードを被る手間すら惜しみ、ロザリンドとレクスは走った。
いつの間にか雨は大粒になり、視界が悪い。水飛沫を飛ばしながら地を蹴って走る。雷光が走り、間髪入れずに稲妻が落ちてきたーー近い。
レクスは走りながら抜剣した。
「多少手荒な方法を使ってでも止める。ロザリーとカラ様は、巻き込まれないように気をつけてくれ」
言うなり速度を上げたレクスは、まっすぐに使者に向かって突進して行った。その速度たるや並ではなく、ロザリンドの足では到底追いつけない。あっという間に置き去りにされ、ロザリンドはなすすべなく小さくなっていくレクスの背中とカラドリウスを見つめる。
降りしきる大粒の雨の中、レクスが使者の乗る馬に向かって剣を振り上げたその時である。
ーー上空を一際大きな光が迸り、光は遮るものがない平野の中、まるでレクスの剣を避雷針にするかのように落ち、そして雷音が響き渡る。
閃光、爆音。レクスの体がぐらりと傾ぎ、さすがの使者も足を止めた。
「レクス!」
ロザリンドは叫びレクスに駆け寄った。レクスの手を離れた剣が地面に落ち、レクスの体も街道に倒れる。
「レクス、生きている!? ねえ!!」
右手の損傷が酷く、爛れている。だがレクスはかろうじて生きていた。全身痙攣させているが、心臓は動いている。
「君、この人物の連れか?」
使者は馬上からロザリンドたちを睥睨していた。
「剣を持ち斬りかかろうとする不届者を、天の使者であるカラドリウス様が怒りの鉄槌を下したのであろう……本来ならば王都に連れて行き、衛兵に突き出す案件。だが今の私は急いでいる。命拾いしたな、賊よ。せいぜい強運に感謝しろ」
使者はそう吐き捨てるように言うと、馬を走らせ再び街道を行ってしまった。
もはや手紙を追いかけるどころではない。目の前で死にかけているレクスをどうにかするほうが重要だ。ロザリンドはレクスの脇の下に手を入れると、彼の体を持ち上げようと懸命に力を入れた。
「カラ様、王都まで飛んでいただけませんか。レクスにとっては不本意かもしれないけれど、城に連れて行けば医師に診ていただけるはずだわ……王弟なんですもの」
しかしカラドリウスはじっとレクスを見つめたまま、動かない。
「この傷を人間の医師が治すことは不可能じゃ。レクスはもう死ぬじゃろう」
「……そんな!」
「たった一つだけレクスを助ける方法がある。わしの力を使うことじゃ」
ロザリンドはその時初めて気がついた。視界が悪くなるほどの土砂降りにもかかわらず、カラドリウスは全く濡れていない。黒いつぶらな瞳をロザリンドに向けると、淡々と告げる。
「わしを『生と死を司る神鳥』にしたのは、他ならぬ『魔の乙女』ケーラじゃった。契約に基づき代々の王弟以外にわしの真なる力を引き出すことは不可能……じゃが、ケーラの血を引くおぬしならば、容易いことじゃろう。レクスを助けたくばわしに向けて手紙を書くがよい、ロザリンド」
ロザリンドは迷わなかった。近くに放り捨てられていた鞄に近づき、留め具を外して中から筆記用具一式を取り出す。羊皮紙が濡れないように覆いかぶさるように四つん這いになり、インク壺の蓋を外してペン先を浸す。震える手をなんとか叱咤して、文字を紡ぎ出すーーこれほどまでに強く願ったことなどないというほどに、心を込めて字を書いた。
レクスを助けてほしい。命を繋いでほしい。怪我を治してまた元気な顔を見せてほしいーー単純明快で、切実な願い。
どれほど彼に恩があるのかわからない。
王弟という身分を超え、ロザリンドに寄り添い、領地の窮状を救い一緒に奔走してくれた。レクスがいなければ、ロザリンドは魔鳥の襲撃によって死んでいたのだ。
レクスをこんなところで死なせるわけにはいかない。
最後の一文字を書き終えた時、文字が発光した。鎧豹の時とは比較にならぬほど、眩い白い光だった。
光を纏った文字が浮かび、カラドリウスを囲う。踊る様に、舞う様に、文字が周囲に展開する。
カラドリウスの大きさが、元の人が乗れるサイズに戻った。羽を広げてバサリと飛んで、真上から黒い瞳でレクスを見下ろした。
傷つき横たわるレクスの上で、何度も何度も翼をはためかせるーー天を覆う厚い雲が割れ、光が差し込んだ。
ロザリンドの書いた文字を周囲に纏わせ、光を浴びるカラドリウスの姿はまさに神の鳥と呼ぶにふさわしい神々しい姿だった。
カラドリウスの羽がふわりと舞い、レクスの体にはらはらと落ちてゆく。
すると、傷ついていたレクスの体がみるみるうちに癒えていった。
羽が触れるたびに焼け焦げた腕が、肩が、足が治っていく。
その奇跡的な光景を、ロザリンドは息を飲んで見守っていた。
やがて全ての傷が治ると、カラドリウスは地面に降り立ち鳩のサイズに縮む。じっと見つめているとレクスの指先が動き、土を掴んだ。
ーーいつの間にか雨は止み雷雲は去り、周囲は晴れ渡っていた。
「……う……」
「レクス、大丈夫?」
ロザリンドが駆け寄ってレクスの体を支えると、彼は震える指先で自分の顔を覆い、小さく左右に頭を振ってから、ロザリンドを見つめた。落雷の衝撃で眼鏡は吹き飛ばされてしまっている。
「俺は……どうして……」
「使者に斬りかかる寸前、落雷で吹き飛ばされたのよ。死にそうになっていたのを、カラ様が助けてくれたの」
「カラ様が?」
信じられない、とでも言いたげな様子でレクスがカラドリウスに視線を向けると、鳩サイズのカラドリウスが頷く。
「うむ。いちかばちかだったのじゃが、ロザリンド殿の力を借りた。わしに手紙を書いてもらってのう……そうしたら上手くいったというわけじゃ」
「ロザリーの!? ……ちょっと失礼する!」
レクスの驚愕は大変なものだった。先ほどまでの瀕死の様子は何処へやら、ロザリンドの服に手をかけると、急にワンピースのボタンを外してガバッと開き、あらわになった左胸を食い入る様に見つめる。
「!? ちょっ、急に何!?」
「紋様はないのか……ならば契約したわけではないんだな」
それから朝焼け色の瞳でロザリンドを見、ワンピースからパッと手を離して両手で顔をペタペタ触った。
「どこか痛みを感じたりはしないか? 心臓が握りつぶされる様な感覚は? 目の前が真っ暗になり、思考が焼き切れる様な痛みを感じたりはしなかったか」
「な……ないわよ、ないない!」
突然レクスに詰問されたロザリンドからしてみれば、何が何だかわからない。
ワンピースの前をかき寄せて握りしめながら、しどろもどろに問いかける。目を合わせられない。
「それより、レクスの方こそ体はどうなの?」
「俺はもうなんともない」
ちらりと見てみると、レクスは掌を握ったり開いたり肩や首を回したりして自分の体を確認している様だった。
「不思議な感覚だな……あれほど重症だったのに、今は体が軽い」
「カラ様の力ってすごいのね」
ロザリンドがワンピースのボタンをつけながら言うと、レクスがじっとロザリンドを見つめてきた。
「この力は、代償なしでは使えないはず。そうでしょう、カラ様」
「ああ。少なくともおぬしら王家との契約では、そうなっておる。じゃが、相手がケーラの血を引く『魔の乙女』であれば、話は別じゃ」
「あの、全然話が見えないんだけど……一体どういうことなの?」
レクスは嘆息し、街道の先に存在する王都を見た。
「今から使者を全力で追いかけても、もう間に合わないだろう。間に合ったとしてもさっきの様な目に遭ったらたまらないしな。……周りに誰もいないことだし、ゆっくり歩きながら話す」
立ち上がったレクスが差し伸べる手に掴まりロザリンドも腰を上げる。瀕死の重傷を負っていたとは思えないほどレクスはしっかりと立っていた。そして気がつく。服も体も全身がびしょ濡れだったはずなのに、いつの間にかすっかり乾いて綺麗になっていた。これもさきほどのカラドリウスの力の影響なのだろうか。
荷物を持ったロザリンドとレクス、そしてカラドリウスが街道を歩いた。雨が上がったばかりだが、さすが王都へ向かう道、しっかりと舗装されているのでぬかるんだり水たまりに足を取られたりすることがない。
「……どこから話せばいいのか……」
レクスはうつむき足元を見ながら慎重に言葉を選んでいた。
「そもそもカラ様を神鳥に押し上げたのは、『魔の乙女』ケーラの功績だったんだ」
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