第四十二頁【塗仏】
【塗仏】
三年前に、岡山県で一人暮らしをしていた父が亡くなった。
鍋島家の長男は私で、父が亡くなった後に残された実家の始末は当然私に一任される事になった。
……であるがお恥ずかしながら、私の生活拠点が東京である事に加え、
程無くすると仕事も落ち着き、娘も無事に大学受験に合格して一人暮らしを始める事になった。
私はようやくと鍋島家としての責務を思い出し、一度自宅の整理に向かう事にした。
三年ぶりに一人、岡山県に帰省した。けれど別に、誰が待っている訳でも無い。
築五十年程にもなる二階建ての実家は、当然だが電気も水道も止まっている。
たった三年の月日が流れただけだというのに、家の有り様はまるで廃墟の様にも思えた。
人が住まなくなると家はすぐに駄目になると聞いた事があるが、それは本当の様だ。それが科学的にどの様な原理によってそうなるものかは私には分かりようも無かったが、いずれにしても私の生まれ育った思い出にはうず高く埃が積もってしまっていた。
家財等はそのままである。しかし人の居なくなった実家は、電気が止まっている事にも加えて非常に暗い印象を受けた。
冷たく硬質化した記憶を覗いている様である。
私の記憶にある、両親と過ごしたあの温かい日々はもうここには無い。
それにしても、実家がこの様な有り様になっているというのは誤算だった。
昼間の内にさっさと掃除を済ませて夕方には帰るつもりだったので電気も止まったままだ。夜になったら灯りも暖房も効かないこの部屋では過ごせないだろう。
私は急ぎ、掃除を開始する。
――仏間に、そのままになった仏壇を見た。
両親の位牌位は流石に自宅に持って帰っていたが、真っ黒い仏壇には未だに香炉に線香立て、りんや霊供膳、果ては御本尊までもがそのままになって埃を被っていた。いずれもぞんざいに放置されていると言っても過言ではない。
壁に立て掛けられた両親並びにご先祖様の遺影が、黒い目をして私をジッと見下ろしている。
陽が傾き掛けていた。
光源のないこの家に僅かにもたらされていた陽の光も失せて来て、仄暗くなって来た。
――タイムリミットだ。
そう考えた私は、少しの名残惜しさと罪悪感に後ろ髪を引かれながらも、仏間を後にしようとした。
そのままにされた仏壇の事は流石に気掛かりであったが、また後日掃除に来る他があるまい。
……ガタン。
と音がして私は振り返った。
見ると、不吉にも父の遺影が壁から落下した様である。
流石に怒っているのだろうか、と思いながら遺影を壁に立て掛け、再び踵を返した途端に…。
……パタン。
今度は母の遺影が倒れて来た。
ゾッとした私は、母の遺影を拾い上げながらその時、頭上に気配を感じてぴたりと止まった。
立ったまま前傾して遺影を拾い上げた姿勢のまま、その頭の先の仏壇の方から確かな人の気配を感じて、顔を上げられなくなったのだ。
……というより、
畳を見下ろしたまま固まった私の視界の上半分に、年老いた男女の素足が立ち尽くして、そのつま先を、俯いたままでいる私の方へと向けている。
「父さん……?」
意を決した私は顔を上げた。
しかしそこには誰も居らず、生白い両親の足も消え去り、黒々とした仏壇が私を見つめているだけだった。
……いや、違う。
暗黒の様でもある仏壇の、一面の黒一色の中に
それは白く、艶々としていて、赤い
唖然としていると、白い球体が向きを変え――
それは
筋に吊られて垂れ落ちたそれは
形容するならばそれは、市場で見掛けるマグロの目玉か、キンメダイの眼球の様に大きく、何処か異質めいたまでの大きな黒目で私を覗いていた。
「アアッ!?」
腰を砕かれた私はその場にへたり込んだ。
見上げると目玉は消え去っているが、今度は何かベッタリとした物が仏壇に付着している。
恐る恐ると近寄って触れてみると、それは粘液の様にネバネバとしていて、魚の様に生臭かった。
先程までは間違い無く無かった筈の正体不明の粘液が、糸を引いて御本尊にまで纏わり付いている。
突如、ご先祖様の不信心を戒められる様な思いに駆られた私は、懐中電灯の灯りを頼りに、取り憑かれた様に仏壇の掃除に取り掛かった。
それからはもう、あの吊り下がった目玉は現れなかった。
――――――
『塗仏』
全身は黒く、魚の尾ひれがあり、目玉の飛び出した仏の姿で描かれる。ウナギかナマズが人化した様な姿にも思える。
仏壇に潜み、不信心な者を驚かすという。
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