第五十頁【牛鬼】


   【牛鬼】


 食肉加工場で働いていたSさんから聞いた話。

 Sさんは牛の解体業務を任せられていたらしい。

 その工程を聞いてみると、まずはキャプティブボルトという圧縮空気で打ち出すボルトを牛の眉間に合わせて発射し、意識を無くさせ、足にチェーンを掛けて吊るしてから、喉元を裂いて心臓付近の大動脈を刃物で切断し、放血させるという。

 国民に食肉を届ける。誰かがやらねばならない誇り高き仕事であるのは間違い無いが、Sさんは動物の命をいただくという事にどうにも強い抵抗を感じ続けていたという。

 いくら作業と割り切ろうとしても、完全に心を無にする事など出来なかった。

 それでもSさんがこの仕事を続けてこられたのは、先輩に言われたを忠実に守り続けていたからである。


 


 先輩曰く、目にはが宿るという事であった。

 しばらくはその教えを守り続けていたSさんだったが、作業に慣れて流れ仕事の様になって来た頃に、絶命する瞬間の牛の目を覗いてしまった。


「あの時の目が忘れられないんだよ。そりゃ国民を支えるかけがえのない仕事だよ……でもさぁ、俺はもう出来ないと思ったんだ」


 丸く大きく純真な黒目が、何か訴えかける様に、Sさんを見ていたという。

 そこにこもったに、Sさんの心はやられてしまったらしい。


「俺も子供の頃は何の疑念もなくバクバク肉を食ったり、残飯にして捨てたりもした。生き物が殺されて肉になる工程なんて誰もリアルに想像する事なんて無いよな。最近のちびっ子達なんて、スーパーに並んでるあの形のまま肉や魚が生きてるなんて思ってる子もいるらしいし……まぁ、なにが言いたいのかっていうとさ、知らなくてもいい現実ってあると思うんだよ。それを知って、肌で感じて、少なくとも俺はそれから肉を食えなくなっちまった」


 Sさんは頭を抱えて吐き出す様に言いながら、それでも誰かがやらなくちゃいけないんだけどな。と嘆く様に付け加えた。


「急に仕事辞めてさ、でもこれからどうしようって……俺には何の特技も学歴も、職歴だってないし。それでもどうにか稼いでいかなくちゃ生きてはいけない事だけはわかるからさ……俺、もうどうにも嫌んなっちゃって、訳がわかんないんだけど……」


 ――海に行ったんだよ。


 内陸に住むSさんは長らく海を見ていなかったが、幼い頃に家族旅行で見た光景が忘れられないらしい。

 どうせ暇になったのだしと、金は無いがやけっぱちになった心持ちで、一人海へと車を走らせる事にした。 


 自暴自棄の衝動性による計画だったから、到着する頃にはもう夜になってしまっていた。

 波の音はざぁざぁと絶え間無く、感じる風こそ潮臭いが、海岸に降り立って先を見渡しても、そこには黒々とした暗黒が広がるばかりであった。

 俺はなんて馬鹿なんだ、海なんて何も見えやしない。とSさんは自分を責めたという。

 それに加えて宿泊先はおろか、車のガソリンさえ残り少ない。こんな田舎にガソリンスタンドなんていくつあるかもわからないし、第一こんな時間になってしまっては開いて無さそうなものだ。

 今更冷静になったSさんは、自分がこの冷たい夜の海に取り残されてしまったかの様な情けない気持ちになった。


 Sさんはもう頭を空っぽにして、暗い浜辺に腰を下ろし、吹き抜けたこの正面の海からの風に前髪を捲り上げ続けた。

 抜き差しならない状況に打ちひしがれながら、仕様がないのでたそがれてばかりいると、不思議な事に、何処かこんな状況を望んでいたかの様な心持ちにさえ思えて来たという。

 Sさんはもう何もかもがどうでも良くなって、細かな砂が衣服の繊維や髪に絡み付くのも構わず大の字に転がった。


「目がさぁ……あの目がさぁ、俺に訴えかけて来てたんだよ……忘れられねぇんだよ」


 そう独り言ち、夜空にあの牛の目を思い描いてしまいながら苦々しい表情をしていると、


 ――ザバッ。


 とすぐ足元の波打ち際の辺りから、何か大きなものが打ち上がったかの様な物音があった。

 咄嗟に上体を起こし、暗い海の方へと視界を凝らすと、


 当然ギョッとしない訳がない。

 水面を照らす僅かな月明かりに映し出されたそれは、例えるならばアザラシか何かが水中から頭を出しながら、Sさんの座る砂浜の方へと真っ直ぐ向かって来ている様にも思えた。

 しかし次第にその存在が近づいて来ると、無論そいつがアザラシなんかである筈も無い事がわかって来る。


 頭に二本、角の様に突き出すものがある。

 そしてその下に、月光に照らされた――丸く巨大な黒目が二つ輝いている。


 ――あれは、あの時俺を見ていた、だ。


 何故だかSさんはそう思ったそうである。

 そしてソイツは二足歩行で、もう肩程まで姿を現していきながら、間違いなくSさんに向かって歩いて来ていた。

 恐れ慄きながら、腰を抜かして動き出せずにいると、牛は遂にその全貌をSさんの前に現して、ずぶ濡れになった胴体を晒した。


「俺……?」


 それは、Sさんが食肉加工場で来ていた作業着であったという。

 二足で歩く牛首の化け物は、狼狽える事しか出来ないでいるSさんへと歩み寄って来ながら、ゴソゴソと、後ろポケットから何かを取り出した。


 ――キャプティブボルトだ。


 牛首の化け物はSさんの胴体を映し出し、その手にあの日まで、牛を殺す為に手にしていた凶器を持っていた。


 ――まさか……今度は俺が、牛に殺される番だって言うのか?


 呼吸が荒く、動悸が激しくなっていたSさんへと、牛首はまるで人間と見紛うかの様に自然な足取りで歩み寄り――キャプティプボルトをSさんの眉間に添えた。


 ――あっ、殺される。こんなに淡々と?


 揺れ動く事もない冷酷な瞳に見下ろされながら、Sさんは意識を途絶させた。


   *


 気付けば、朝日の眩しい砂浜に、大の字になってSさんは眠っていた。

 昨日の牛首は本当に夢だったのだろうか、とSさんは思った。

 体を見渡してみても別段異常ない。

 それにしても、自分は本当にこんな所で無防備に眠ってしまったとでも言うのだろうか?

 Sさんは身を起こして周囲の砂浜に足跡を探してみた。

 ……特に足跡は見当たらなかった。最も波打ち際の足跡など波にさらわれてしまうものであるし、砂浜に残されたものも、こう風が強くては形を留めないだろう。

 昨日の事は、ひどい夢だったかの様に思うようにしながら、Sさんは軋む体を起こして、近くに停めていた車の運転席にどっかりと乗り込んだ。

 

 ――とにかく帰ろう。この時間なら近くのガソリンスタンドが何処か開いているだろう。


 シートベルトを締めてエンジンを起動し、サイドブレーキを上げながらSさんは何の気なしにルームミラーを見上げた。


 寝ぼけ眼をした自分の頭が、


 真っ黒い純粋な双眸を輝かせながら、自分を見つめていた。


   *


 そこまでが夢だった様で、Sさんはまた砂浜で目覚めた様である。

 自分の顔は牛にはなっていなかったが、眉間には覚えの無い傷跡が少し付いていたそうである。


――――――


『牛鬼』


・出現地域:西日本


 海辺や淵、滝などの水場に現れる妖怪。

 牛鬼淵、牛鬼滝という地名は各地に多くあり、いずれも『牛鬼』が出現したとの伝承に起因したものである事が多い。

「画図百鬼夜行」では水牛の様な姿で描かれるが、各地に残る伝承での姿は様々で、体が鬼で頭が牛、牛の体に鬼の頭、着物を着た人の体に牛の頭、昆虫のような羽を持つ、などがある。

「百怪図巻」などの妖怪絵巻では、蜘蛛の体に牛とも鬼とも言える頭と、しばしば『土蜘蛛』と混同される事もあるが、明確に区別するものも多い。

 基本的には人に害をなす者として恐れられるが、一部地域では悪霊を祓う神の化身として崇められている。

『濡女』や『磯女』と共に現れる(同一、もしくは『牛鬼』の化身であるとも言われる)。姿を見ただけで死ぬ。影を舐められたら死ぬ。人を助けた事があるが『牛鬼』は人を助ければ死んでしまう、など各地の伝承によってバリエーションがある。

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