第四十九頁【ぬっぺっぽう】
【ぬっぺっぽう】
一九四五年八月九日。
今から約八十年前。
長崎に落とされた非人道的人災。
歴史に残る爪痕。忘れてはならぬあの痛ましい記憶を、生の声で語れる者が少なくなって来ているという話しを耳にした。
私の祖父はその当時、幼き少年として長崎に居た。
これは、あの日の日本国民の忘れざるべき記憶と、その時に祖父が見たという、
*
※方言がキツいので標準語に修正して記載しています。
「あの当時のわしはまだ五つか六つになる位のガキだったな。
あの頃は空襲がひどくて、数日起きに、悪くするとその日の内に何度も何度も空襲警報が鳴って、その度家族全員で防空壕で震えながら肩を寄せ合ったのを覚えとる。
父ちゃんは太平洋戦争に行っちまって、母ちゃんと末っ子のわしを含めた六人で、ひもじいなりにもそれなりに暮らしとったんだけども、あの原爆で全部が更地になった。見知った故郷が全部が真っ平らな焦土になっちまったんだ。
母ちゃんも姉ちゃんも兄ちゃん達も、わしの目の前で死んじまった。
あの日も朝っぱらから警報が鳴って防空壕に身を潜めとったな、それで昼前位にな、もういいかと思って外に出ようと思うと……凄まじい風と熱波があって、防空壕毎押し潰れた。
何が起きたかはしばらくはわからんかった。それでもわしは生きとった。わしの兄弟の一番上のサイチ兄さんがな、わしを腹に抱えて穴ぐらの隅にうずくまっとったんだ。それで助かった。
でも他の家族や防空壕に隠れとった人達はもう、見るに耐えられん姿になってほとんどが死んどった。死んでなくとも、手の施し様が無い事がひと目にわかる位の虫の息だった。
わしはサイチ兄さんに抱きかかえられて、穴ぐらに押し潰れそうになっている所を這い出した。
カズエ姉さんもミヨコ姉さんもまだ微かに呻いておったけど、今に潰れちまいそうな穴ぐらから出るのに必死で構ってはおられんかった。
……どちらにせよ姉さん達はもう、助からんかった。
命からがら外に出ると、唖然としたな。
あれは悪魔の兵器だ。
わしらの町が、記憶が、命が、ただの一瞬で荒れ果てた運動場みたいになっちまったんだ。
わしを防空壕から引っ張り出したサイチ兄さんも、よく見れば横腹から骨が幾つも飛び出しとって、それでみるみると蒼白い顔になっていって、終いには動かなくなった。
わしは、一人になった。
それでも泣いてる暇さえ無かった。
気付けば知らない大人に脇を抱えられながら、家族達が纏めて潰れちまった穴ぐらが遠く、ちっぽけになって行っちまってた。
生き残った人間は僅かだった。
全員ひどく疲れ果てた様な……この世の闇を見下ろすかの様な冷たい目をしとった。
みんな家族を失ったんだ。
ここにはもう、何も無い。
わしはその当時まだ年端もいかぬガキだったから、割に面倒を見てくれる大人たちもいた。
けれど何人かのおっかさんはわしを全然知らん名前で呼んで妙に馴れ馴れしく頭を撫でたりしてな……多分、わしを誰かに見立てて話しとったんだと思う。
あの時はそこらにごろごろと無惨な遺体が転がっとった。瓦礫の下にも、小川にも、石を投げれば死体に当たった。考えもつかん位
みんなおかしくなっとったんだ。
ある時わしは、どうにも家族の事が恋しくなって、家族全員が押し潰れた防空壕へと出向いた。
けれどそこにはもう家族はいなかった。
引っ張り出して、ひとまとめにした遺体の山の中に埋まっておるのを見つけた。
わしはその場に膝を抱えてうずくまってな。
もう死んでしまいたいと思って、腹がぐぅぐぅ鳴るもんだから、このまま自分も餓死してしまえと思って、夜までずっとそうしとった。
そんな事をしていて、しばらくするとな――ずる、と頭の先から物音がした。
いつしか周囲は夜へと変わり、外灯なんかもある筈がねぇから、本当に月明かりのぼんやりした光だけを頼りにしながら、わしは少しずつ闇に慣れて来る視界を凝らした。
家族達の積み上げられとった遺体の山の上に、何かわからねぇけど、膨れ上がった風船みたいな奴が二足で立ち尽くしてたんだ。
暗くて影になってたけどな。
なんかこう、もぞもぞとよ、遺体の間から生まれいでたみたいにぞろりと這い出して来て、膝を抱え込んどったわしを見下ろしてんだ。
ずるりと、重い足を引きずるみたいにして、ソイツは遺体の山を降りて来た。
わしは……今となっては訳もわからん話しなんだが……まぁわしもおかしくなっとったんだろうな。確かに死ぬのを目前にしとった家族の名前を順番に呼んでいったんだ。
その膨れ上がった肉袋みたいなもんに向かって。
もしかしたら家族の誰かが生きとったのかも知れんと思ってな。
……
サイチ兄ちゃん
おかあちゃん
キク姉ちゃん
カズエ姉さん
ミヨコ姉さん
返事なんて無かった。けれどソイツがわしに近寄って来る度になんだか青白い様な蠢く肉が見えて来て、そしてなんだか人が腐乱した嫌な臭いが鼻を突いて来た。近付いて来る影なんかはやっぱり膨れ上がったフグみてぇに異様な形をしていて、とても人だとは思えなかったな。
ようやくわしが恐怖を感じた時には、もうソイツはわしの前に居た。
月明かりに照らされて、ソイツの全貌がわしの目に明らかになった。
ソイツは……
ソイツは……――」
祖父はそこまで語ると、言い淀むみたいにして口を
けれどその表情はその当時を追想して精神的に参っているというより――なにか
血の繋がりの無い御老体からの聴取なら、そこで引き下がるものだろうと思う。けれど私は祖父が僅かにその口元を開いたり閉じたりしているのを見て、助け舟を出すかの様な心持ちで、
「……ソイツはなんだったの、おじいちゃん?」
と聞いた。
「ソイツはな……
「え?」
「……ハッハッハッハ、もう忘れちまった。老人の与太話だ。あの時は寝ても覚めても悪夢みたいな毎日だったからなぁ、記憶がごちゃごちゃになってんだ」
「もう、気になるなぁ〜」
その時の私は、祖父の話しを曖昧に聞き流して笑っていた。
けれどそれからしばらくして、夜眠ろうとベッドに入り込んだ時に、ふとあの時に聞いた祖父の言葉を思い出した。
『もしかしたら家族の誰かが生きとったのかも知れんと思ってな。
……
……?
……それはつまり、どういう事だ?
『ソイツはな……
『遺体の間から生まれいでたみたいにぞろりと這い出して来て――』
その死肉の集合体の様な肉人は――
私は鼻腔に、肉の腐ったかの様な嫌な臭いを微かに感じた。
――――――
『ぬっぺっぽう』
一頭身の肉の塊の様な体に、シワが寄ってかろうじて顔のようなものを形成した姿で描かれる。
目も耳も指もない、死臭を漂わせる肉人であり、全身に白粉をしているという。
人間に成り済まし、親しげに会話をした所で正体を表し、驚かせて殺してしまうという。
ご存知『のっぺらぼう』の原型となった妖怪である。
当時駿府城に住んでいた徳川家康の前にも現れたという伝承が残っていて、その姿は小児程のサイズで、意外にも素早く、捕獲を諦めて山の方へと追い出したという。
また「
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