第四十八頁【赤舌】
【赤舌】
この小さな町を全貌出来る展望台が、幼い頃からの私のお気に入りの場所だった。
小高い山の上にある地元民からの信仰を集める中規模の神社には、山肌から迫り出す様な形の展望台があって、そこに鎮座した背の高い仏像が町を見下ろす様にしている。仏像の前には東屋があって、その古びれた椅子に座って私は日がな一日、
正面には遠く山並みが続いていて、足元を見下ろせば行き交う人々や自動車が見える。
けれど私が展望するのは
何処迄も広がる深い空を、黒い雲が垂れ込める雨空を、春風に乗って呑気に揺らぐわた雲を、夏の蒼穹に上る巨大な積乱雲を、木枯らしの荒ぶ空に散りばめられたすじ雲を、海の様に冷たい冬の夜空を。
私は空を見上げ続けていた。
なぜそうするのかはわからない。
けれど空に広がる果て度もない深さを想像すると、私の胸は高鳴る。
流れゆく無形の雲を見ていると、頭の中のキャンバスに、二度とは思い描けぬ様な絵画が見える。
空とは未知だ。
私たちのすぐ頭上に広がり、誰しもが知っているこの空とは、何よりも近くにある無限――怪奇なんだ。
――ただ一度だけ、
私はただ、一度だけこの空に……。
ある秋の、空一面がオレンジに変わった日没のでのこと。
私がいつもの様に東屋に座って壮大な空を見渡していると、雲の切れ間から――
それは赤く、肉質で、一面のオレンジ色を背景にしていても明らかに分かる鮮烈な朱色をしていた。
広大なる空に垂れる……それは
これ程の広さをした上空で、地上に居る私からこれ程に巨大に見えている、そのヌメヌメとした
想像もつかなかった。
唾液を垂れる巨大な舌は生きているかの様に蠢動し、雲の間を突き抜けて、正面に見える、一際巨大な山岳の一端に届いた。
……未だ、その赤い舌の持ち主の全貌を見る事はできない。
私は瞳を凝らして、この空を覆った雲の上にいる者の正体を見定めんとし続けていた。
混乱している間もなく、やがて山岳の向こうに巨大な日輪が没した。
世界が夕暮れから夜へと移り変わる、その刹那の瞬間に――
私は薄闇に現れた莫大なサイズの、
それは瞳孔の細く縦長な、猫の様な目をしている獣の物に違いなかった。
空が薄闇に染められていく刹那に雲を割って現れながら、地上に垂らした赤く巨大な舌と共に溶けて消え去って、
空から地上を見下ろした獣は姿を消した。
呆気に取られた私はしばしその場を動けぬまま、空いた口が塞げずに放心していた。
それからすぐにネットニュースやSNSを検索したけれど、空から垂れた巨大な舌を見たという者は見つけられなかった。
ただ翌日、とある山で大噴火があり、周囲一帯に甚大な被害を及ぼした。
何処のテレビ局でも連日その話題で持ちきりになる位の大災害で、調べてみるとその山は、昨晩あの赤い舌先の届いた、展望台から見える山だった。
――――――
『赤舌』
凶兆を示す妖怪であるとされる。
黒雲から大口を開けた顔を出す、鋭い三本爪をした毛に覆われた獣の妖怪。舌が大きく、その全貌はいずれの妖怪絵巻にも描かれていない。
「化物づくし」「化物絵巻」「百怪図巻」等の妖怪絵巻に見られる『赤口』という妖怪をモデルに鳥山石燕が描いたとされる。
「画図百鬼夜行」では水門の上に描かれているが、その理由はハッキリとしない。
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