画図百鬼夜行 陽
第十五頁 【絡新婦】
【絡新婦】
蜘蛛に魅せられていた。
殊更に俺の心を掴んだのは、沖縄に生息する掌ほどのサイズにもなるオオジョロウグモと呼ばれる日本最大種のもので、こいつは所謂「造網性」の蜘蛛で、大型の巣を張って獲物を待ち伏せし、時には鳥なども捕食してしまうという。オオジョロウグモの張る糸の強靭性は随一で、その糸で作った網なんかで魚も掬える程なのだとか。
一般に蜘蛛というのはオスよりもメスの方が体が大きいものらしく、俺は当然メスの方のオオジョロウグモを自宅のケージの中で飼う事にした。オオジョロウグモは通常一年ほどの短命らしく、あまり売られている事が少ないのだが、その時は運良くマニアから譲ってもらう事が出来た。
幅一メートル程にもなる巨大なケージを用意して、そこに小ぶりな枝葉を配置して飼育環境を整えた。オオジョロウグモは枝葉の間に巨大な網を張って獲物を待ち侘びる様になった。
購入当時は卵程のサイズだったのが、数ヶ月もすると脱皮を繰り返して俺の掌を越える程のサイズになっていた。
体の模様には個体差があるのだが、俺が購入した個体は黒い体にまだら模様のあるものだった。その模様が、日々巨大化していく腹に引き伸ばされて、時折――
……その顔がやがて、口元を動かし始めた。
ケージを覗き込む俺の目に向き合って、「はやく……はやく」とまるで餌を求めているかの様に囁きかけて来る。
わかっている、そう思えるのは錯覚で、獲物を捕食する蜘蛛の腹が蠢動する度にその様に見える気になっているだけに過ぎない。
――わかっている、わかっているのだが……俺は、
その蜘蛛の巨大な背に現れた女の顔にふと、妖艶な美貌を見る様になった。
俺はまるでその蜘蛛に操られてでもいるみたいに、催促されるがままに餌を網にかけ続けた。馬鹿な考えだが、まるでこの俺自身が蜘蛛の糸に操られてでもいるかの様に、気付けば異常な量の食料を網に引っ掛ける様になっていた。オオジョロウグモは飽食に伴ってぶくぶくとその腹を巨大にしていって、また脱皮をした。
白い殻を抜け出して、再びに現れたその背中には、以前よりも克明な女の顔が……この世にこれ程に美しい顔があろうかという顔貌を表した。
蜘蛛は俺に命令する。「餌をよこせ、もっとよこせ」
決して満足する事が無いかのように、どれだけでも、どれ程でも、その口元を妖しく歪ませながら俺に囁き掛けてくる。
俺は既に傀儡と成り下がっていた。
巨大な蜘蛛は既にケージを離れ、俺の居住環境に我が物顔で無数の糸を張り巡らせていた。
俺は網に掛からぬように部屋の隅でうずくまり、せっせと部屋中に張り巡らせられた糸に餌をかけ続けた。
そうすると女は笑ってくれた、不気味に微笑んで俺を認めてくれた。
それで良かった。彼女の寵愛を受けたい、それだけだった。
俺はまるで、女中に貢ぐ哀れな男と成り果てていた。
もう蜘蛛は、虫なんかは喰わず肉しか口にしない様になった。いまやその体には真っ赤な血肉が巡り、俺と同じ赤い液が流れている様な気がしてならない。
女の顔が生気を持って、日毎にその肌に人間の様な色艶を取り戻していくかの様に思えた。
ある時――ぬらりと俺の鼻先に、蜘蛛が垂れ下がって来た。
もうすっかりと俺の顔面と同じ程のサイズに成長を遂げた、女の顔が目前に突き付けられたのだ。
その顔が、
――ニタリと笑って過ぎ去った。
それが限りなく嬉しく思えてしまった。
いまや廃墟のように成り果てた蜘蛛の巣の張り巡らされたこの部屋の主は、既に俺ではなくなっていた。
……ある時、夢を見た。
蜘蛛の糸に絡みつかれた俺は、網にかかった蝶のように身動きも取れなくなって、透明な糸に宙吊りにされている。
俺の体が小さくなったのか、蜘蛛の方が大きくなったのか、俺の等身程のサイズになった黒と黄色のまだら模様のオオジョロウグモが、その頭から例の美しい女の顔を突き出して、ヌッと足元の方から現れる。
この世のものとは思えぬ程の美貌に俺は腰を抜かした。女は何をいうでもなく微笑みながら、その無数の足で俺の体を回して蜘蛛の糸に絡め始める。
そして、ぞぶりと。
俺の頭を喰らった。変わらぬままの美貌で俺を無表情に見下ろしたまま、俺の脳髄を啜り、肉を喰らった。
目覚めると、オオジョロウグモの姿が見えなくなっていた。
開けた筈の無いベランダが開け放たれて、朝陽が射し込んでいる。
後に残された俺は、まるでその瞬間に正気に戻ったかの様に現実へと立ち返り、異様なまでのこの部屋の惨状と、これまでの自分の異常な思考に気付いた。
立ち上がり、姿見に写った自分の姿は、亡者の様に痩せ衰えながらも目をギラギラと光らせて――どういう訳なのか幸せそうに笑っていた。
……額からツーと血が垂れて来た。
ああ、彼女は何処に行ったのか。
――――――
『
・出現地域:全国(宮城県、静岡県)「画図百鬼夜行」では火を吹く小蜘蛛達を忙しなく操る女の姿で描かれている。 美女に化け、人を強靭な糸に絡めて滝壺に引きずり込もうとする伝承が各地に残っている。 特に宮城県仙台市の賢淵と静岡県伊豆市の浄蓮の滝での伝承が有名。
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