第十四頁 【狐火】

   【狐火】


 タケルは七つの頃に、遊び場にしていた近所の山で小狐を助けた事がある。

 痩せぎすになった小狐は親とはぐれたのか、衰弱しきった姿でカラスに身を突かれていた。

 そこに偶然タケルが居合わせた。それを見るとタケルは手近にあった木の枝を折って振り回し、カラスを追い払ってやった。

 濡れた地にずた袋のような姿になって横たわる小狐は、まだ息をしていた。小さく白いお腹が確かに上下しているのを見た。

 野狐にはエキノコックスという寄生虫がいる事がある為に不用意に触れてはいけないという事だが、その時にはそんな事など言っていられなかった。目の前に助けられるかも知れない命があるのだ。いますぐに手を差し伸べなければこの小狐は死んでしまう。一刻を争う事態だという事が、幼心にも理解が出来た。

 だからタケルは、枯れ枝の様に痩せ衰えた小狐を抱いて祖母の家に駆け込んだのだった。


 当然こっぴどく叱られたタケルであったが、なんだかんだと言いつつ祖母は近所の松岡さんの所に連絡し、タケルは祖母と一緒に、松岡さんの運転する軽トラに乗って動物病院に飛び込んだ。

 治療を要するが、助けられると思うと獣医に言われた。

 祖母には無駄に金が掛かったと怒られたが、同時に他者に優しくする事の出来るタケルを褒めて頭を撫でてくれた。


 一週間程動物病院で預かってもらい、それからケージに入れた小狐を返された。後は自宅で餌をやって、栄養がついてきたら山に帰してやりなさいと獣医に言われた。

 小狐は初め、ひどく人に怯えていた。ケージの隅でガタガタと震えて、祖母が通っただけで後退りしてはケージに背中をぶつけたりしていた。餌なんかもどうしても食べない。

 けれど小狐はどうにもタケルの顔がわかるのか、タケルの手から渡された餌だけは嬉しそうに食べたのだと言う。

 狐は頭が良いからな、と祖母が言っていた。

 それからしばらくの後、元気になった小狐はタケルの手で山に帰された。

 行けと言っているのに、小狐は名残惜しそうに、何度も何度もタケルの方へと振り返っていた。

 それはタケルにとって壮大な、夏休みの思い出となった。


 それから八年後。タケルは十五の年になった。

 大きく逞しくなったタケルは、秋の山に祖母の好物の椎茸を採りに行って驚かせてやろうと計画していた。山の所有者である松岡さんにはいくらでも採ってくれていいと言われていたが、決して一人では行くなと忠告を受けた。

 だがタケルは松岡さんからの忠告を素直に受け入れ無かった。それを子供扱いされているからだと思ったのだ。なのでこっそりと山に一人で椎茸を採りに行けば、大人になったとみんなに認めらてもらえると考えてしまった。

 タケルは前に松岡さんに教えてもらった椎茸の原木の所にまで来た。収穫に夢中になっていたのか、時間が早く過ぎ去って、辺りが仄暗くなってきていた。背中のカゴにたんまりと椎茸が収穫出来たのでもう帰ろうと思ったが、ふと脇道を見ると、倒木した木に天然物の椎茸がびっしりと生えているのに気が付いた。

 タケルはいつか祖母が、天然物の椎茸は比べ物にならん位に香りが高くて美味いと言っていたのを思い出す。そして松岡さんから天然物の椎茸に見分け方も教わっていた。

 祖母に喜んでもらえると思ったタケルは、既に空に薄闇に覆われ始めているのにも忘れて、夢中になって寒い山の草道を掻き分けて行った。


 月明かりの薄い、墨汁を垂らしたかの様な夜だった。いつしかタケルは山の深くまで分け入り、帰り道がわからなくなってしまっていた。

 周囲はすっかりと闇に染められ、夜になると一気に冷え込む。薄手のジャケット一枚だったタケルは、ブルブルと震えながら必死になって帰り道を探し続けた。 

 ……検討虚しく、タケルは体力の限界を迎えて、背中に未だ抱えたカゴと一緒に倒れ込んだ。

 ガチガチと、歯の鳴る程に凍え切った体に追い打ちをかける様に、地に横たわった視線の先で、しんしんと降り注ぎ始めた白い雪を見た。


 ――ああ、死ぬのかも。


 そんな風に考えてしまう。

 もう感覚の無くなりかけた真っ白い指先で、タケルは宙を掴む様にして薄い目をした。


 ……すると、視線の先に――ポッと明かりが灯ったのを見た。

 それは仄白い、いつか見下ろした、あの小狐の腹の様な色をしていた。

 幻覚ではない。確かに視線の先の方に白い炎が灯って揺らめいている。

 タケルがこんな時間まで家に帰って来ない事は祖母にもわかっている筈だ。もしかすると村人総出でタケルを探しに来てくれたのかも知れない。

 そんな風に考え、残り僅かな体力を振り絞って立ち上がると、大きな声で自分の存在を知らしめてみた。

 しかし反応がない。と言うより見れば見るほどにその明かりはライトの明かりなんかとはどうにも違い、松明の様に燃えて揺らめいているらしい事がわかってきた。

 不思議に思ったタケルだったが、人は暗黒の中で光を追い求める習性でもあるのか、その“怪火”に吸い寄せられる様に足は前へと進み始める。

 仄白い炎との距離は不思議と縮まずに、タケルから五メートル位の距離を保ったまま先へと移動を始める。

 混乱したが、このままでは確実に凍死してしまう事だけはわかっていた。意味がわからなくてもやるしかない。

 タケルは地獄に垂れてきた蜘蛛の糸にでも追い縋るみたいに、山野を掻き分け夢中になって白い火の玉を追いかけ続けた。やはりいつまでも火の玉との距離は縮まらない。まるで誰かがタケルを先導している様だとも感じられた。

 ――そして唐突に、


 ――ボッ……と。


 タケルが遮二無二にひた走っていた暗黒に並行の直線を引いたみたいに、両脇に丁度線路くらいの幅で赤い炎の大行列が出来たという。

 そして、ぼんやりと見える赤き道筋の先で、仄白い炎がしゅるんと消えた。

 ゴクリと生唾を飲み込んだタケルは、突如と灯された正体不明の赤い道筋を歩き……そしてその先に、立派な着物を来たおかっぱ頭の少女の後ろ姿を見た。

 炎の明かりに揺らめく着物の柄、その女の背中を固唾を飲んで見守っていると、誰に言われた訳でもないのに、タケルの脳内にこんな声が反響した。



「二十歳の頃にお迎えに参ります」



 直感的にその声は、視線の先で背中を向けた怪しき女の発したものであるとタケルは思った。


 そして次の瞬間――何が起きたか、タケルの顔の中心に白い光線が当てられて、その眩しさに目を瞑っていた。


「タケルっ! タケルがおった、タケルが!!」


 それは祖母の持った懐中電灯の白い明かりだった。 

 どう言う訳か、山の深くを歩き回っていた筈のタケルは、気付いた頃には山の麓の遊歩道の入り口にポツンと立っていたのだと言う。


 騒動の後、タケルは自分を導いたと言うあの“仄白い怪火”についてを祖母に尋ねてみた。

 すると祖母は驚きながら、それが“狐火”と言う怪異であると言う事を語ってくれた。

 ここらには狐火の伝承が残っているらしく、村の人の多くが、山野に灯った不思議な炎を見た事があるらしい。タケルの体験した通りに狐火は、追いかけても追いかけても距離が縮まらなかったり、パッと消えてしまってその出どころがわからないものであるらしい。

 ――そして時折に狐火は、十や二十じゃきかない位の列を山の稜線に成す事がある。

 タケルが見たものがそれだった。

 ……確か列を成した狐火の行列には大層な意味があったらしいのだが――それは忘れてしまったと祖母は言っていた。


「“狐”か……」


 タケルはあの頃に救った小狐の事を思い起こした。祖母もまたそうだったのか深く頷いてから……どうしてなのか、ひどくタケルを憐れむ様な、悲嘆に暮れた様な表情を見せた。



 *


 タケルが二十歳を迎えた。

 家族で祝いの席を設け酒も飲んで楽しい宴会になったのだが、皆が寝静まった夜、タケルが突如と起き上がって家を出て行った。

 その事に一人気が付いた祖母は、ふらふらと山の方へ向かって歩み出したタケルの背中に追いついて、何処に行くのかと問いただした。


「いかなきゃ」


 どうにもタケルはしきりにそう言うばかりで、まだ酒にでも酔っているかの様な様子にも思えた。

 直立したままうわ言を繰り返すタケル。祖母は後ろからタケルの顔を覗き込んだ。


 タケルの目の中心が、まるで炎が灯ったかの様に燃えていた。

 赤く、赤く、いつか見た狐火の様に激しい赤色に変じているのだ。

 まるで何かに惑わされ、狐憑きの様な有様となってしまったタケルの相貌に、祖母は腰を抜かした。

 そして愕然と顎を震わせながら――


「やっぱり、やっぱりのか」


 ――と言った。


 そしてタケルの向かうその山の麓から、頂上に上り空へと至るまで、一直線に連なった狐火の大行列が現れた。

 突如と、まるで山全体が燃え出したかの様に真っ赤に染まり、ゆらめく山の陰影が深くなる。

 チカチカと、膝をついた祖母の眼前に闇がチラつく。 

 ――その先で、タケルが狐火の大行列へと歩んでいく。


「タケル、行ってはいかん!」


 祖母は必死にそう叫んだ。


 しかしタケルは首だけを僅かに振り返らせて、その顔の半分を狐火の赤に染めながらこう囁くのだった。





 *


 狐火の伝承の色濃く残る秋田県の某所。

 この地では、夜の山野に連なる妖火の行列を“狐の嫁入り”と呼び、狐の婚礼行列に見立てて語る風習が残る。




――――――



『狐火』


 火の気の無い所に突如と怪火が現れ一列に連なる事を言う。その正体は狐の咥えた火であると考えられた。

 また一列に続いた『狐火』を狐の婚礼行列に見立て「狐の嫁入り」と呼び、吉兆としていた。

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