第二十頁 【姥が火】


   【姥が火うばがび


 京都の亀岡市にある田園風景の中に、保津川を越える為の保津小橋と言うのがある。

 いわゆる沈下橋という奴で、堤防よりもずっと低い所に位置し、増水しても耐えられる様にコンクリートで出来ている。

 幅一.八メートルでガードレースもない吹き抜けの橋は、一応車で渡る事も出来る様になっている。普段は地元の軽トラくらいしかこの道を利用しないが、いざ渡ってみると軽自動車で幅いっぱいになる崖っぷちのそのスリルは想像の通りに凄まじい。

 風はびゅうびゅうと吹き抜けるし、一方通行でないので向こうから車が来ないとも限らない。無事渡り切った先にあるのどかな田園風景には異様な安堵を覚える。


 ここを地元とするK氏は、ある夏の夜に、懐中電灯を片手に堤防沿いを歩いていたそうである。

 初めは堤防の上を歩いていたが、変わり映えのしない景色に辟易して堤防の下へと降りてみた。すると道は緩やかに右手の方角にカーブしていって、夜の暗い中に保津川がざぁざぁと音を立てるのが聞こえて来た。

 草の伸びっぱなしになった林のやや切り開けた細道を、懐中電灯片手に川の方へと近寄っていく。外灯はあるがまばらで、この辺りには民家もないので、当然周囲に人の気配なんかは無い。

 

 突如と切り開けた闇の中にぼうっと佇むみたいに、コンクリートの橋が見えて来た。

 もちろん知っている。これは保津小橋だ。

 K氏は夜の保津川を越えて自宅へと足を向ける事にしたそうだ。


 風を遮る障害物が無くなった事で、打ち付ける様な風がK氏の体を煽った。その時になって初めてK氏は今日というこの日は風が強かったのだという事を知った。

 足元に灰色の道を照らしながら、幅一.八メートルの道を行く。

 両サイドへと視軸を移せばそこには当然深い闇と、轟々と鳴る川の音だけがある。


 橋の中間程まで来た。なんとなく早く渡ってしまいたいと思って、K氏の足取りも早くなっていたという。


 ……すると、右手の川上になる方の暗黒の中に、炎が一つ灯っているかの様な光のゆらめきがあるのが視界の端に映り、反射的に振り返っていた。


 川の上流から、ゆっくり、ゆっくりと……。

 何かが、悲鳴に近い様な、それでいてか細い様な掠れる声を出しながら、川を下って来ていた。

 目を見張って見ると、それは確かに炎であった。

 そしてその声は弱った老婆の最後の声の様であった。


 信じられない事ではあるが、顔から発火した老婆が、川の流れに溺れながらゆっくりとこちらの方へと下って来ている。

 苦しそうに呻きながら、時折水の中へと頭の先まで浸かり、その間炎は消え去るが、必死に酸素を取り込む呼吸と同時にまた水面に顔を出すと炎が灯る。

 こちらまで、半死の呻きが聞こえてくるかの様な悲惨な有様である。


 何がどうなっているのだろうか?

 水の中で燃える炎があるのか?

 溺れ、そして同時に焼かれるとは、どれ程罪深い事をしたと言うのか?

 ――パニックに陥りながらもK氏はそう思ったという。


 狂乱する老婆の声はか細く、遠くにまでは届かないだろう。

 しかしその絶叫は川の流れに沿ってK氏へと近づいて来ていたと言う。


 ――早くこの橋を渡ってしまわなければ……。


 懐中電灯を振り返らせて先を急ごうとするのと同時に――水面の方から、どぼんという大きな音が聞こえてまた振り返ってしまった。

 ……すると老婆も炎も消え去っている。

 水面をくまなく照らして見ても、何処にも異様なものは見当たらない。


 老婆は沈んでいったのか?

 そもそもあの老婆はなんだったのだろうか?

 実際にそこに生きていたものだとはとても思えなかったし、思いたくもなかった。



 ――見下ろした橋のすぐ足元から、燃え立つ老婆が現れた。



 瞬間移動でもしたかの様に突如と肉薄し、水面から顔を出してその腕でK氏を掴もうとした――。

 K氏はすんでの所で飛び退き、煤臭い香りをすぐ鼻先に感じたまま、保津小橋の足にしがみつき、這いあがろうとし始めた老婆の元から走り去ったと言う。


  *


 K氏の住む京都府亀岡市の保津川には、“姥が火”という名の怪火の伝承がある。

 “姥が火”については『古今百物語評判』にも記述があり、この辺りに住む老婆が、子供の仕事を斡旋すると嘯き親から金を受け取った挙げ句、その子供を保津川に流していた。やがて天罰の様に老婆は洪水で息絶え、それ以来保津川には怪火が現れる様になった。とある。


 あの老婆は、今もまだ地獄の炎に焼かれているのかも知れない。



――――――


姥が火うばがび


・出現地域:京都・大阪


「古今百物語評判」曰く、京都府亀岡市にかつて住んでいた老婆が、子供に仕事を斡旋すると嘯き、親から金を受け取った後、保津川に流していたとある。やがて天罰にあった老婆は溺死したが、それ以来保津川に怪火が現れる様になったという伝承が残る。

「諸国里人談」によれば、東大阪にある「枚岡神社」で油を盗んでいた老婆が仏の祟りで怪火になった姿であると語られている。

 

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