第二頁 【天狗】
【天狗】
自分は登山が趣味だったんです、ええ。
大学のサークルで登山サークルに入りまして、勿論万全に準備をして、初めの頃なんかは特に頭の先からつま先までしっかりとした装備で山に挑んでいたんです。
ですけど何ていうか……馴れと言いますか。山登りを覚えて五年程も経過して来ると、段々と慢心が強くなってしまいまして。初心者の頃は山に登る時は数週間前か早くすると一ヶ月も前から心構えをしてしっかり登山地図なんかも確認してたと言うのに……その頃にはもう、めっきりそんな事もしなくなってしまいまして……。
いやぁ、お恥ずかしい。
その日も私、もう何度も行った事のある山だからと、思い立つままに登山靴さえ履かず……なんて言うか、そう……はっきり言うとサンダルですよね、みんな履いてるあの流行りの白い穴だらけの草履を履いて、常に車に常備してあるリュックの一つだけ持って、まるでちょっくらコンビニにでも行って来るみたいに一人で登山を始めたんです。私の地元にあるその山は標高も高くは無いし、大丈夫だろうって。
……こうして話しているだけでも登山者として恥ずかしいですよ。自分でもなんて馬鹿野郎なんだって思います。でもまぁ、若かったんです。その頃は。はは。
確かあれは秋でした。秋の始まりの少し肌寒い時でした。うん、それでね、初めこそ順調だったんです。だって何度も登った山ですもん。道順も地形だって覚えています。けれど山の気候って、突然変化するんですよね。そんな事さえ忘れて私は突然の雨に打たれてしまったんです。
そして見事にバチが当たり……滑落したんですよね。
ええ、それはもう大変な事ですよ。雨で視界が悪くなって地面なんかもぬかるんじゃってね、ツルッと滑っちゃって。
なんてったってサンダルだから。
それで気付いた頃にはボロボロの格好で見知らぬ山野に投げ出されていた。登ってた頃はまだ昼間だった筈なのに、その頃にはもう西日が山に沈んでいき始めていてね。雨はもう止んでいましたけど、濡れた体はずくずくに湿ってました。
気絶していたんですよ私。ええ、そのまま死んでいたとしてもおかしくなかった。不幸中の幸いか大怪我はしていなかった。けれどどうにも足が痛む。見ると白いサンダルはどっかいっちゃってるし、右足首をかなり強めに捻っちゃってて、折れてはいないけれど見るからにポンポンに腫れちゃってね、耐えられない程じゃないけれど動かそうとすると激痛が走る。もうよったよったとそこらの木々を支えにしながらじゃないと歩けないって状態なんです。
――マズイとその時思いましたよ。そりゃもう青褪めました。
日が暮れかけている。ここが何処だかもわからない。つまりはこれは遭難したって訳だ。
まさか自分がって思いましたよ。夢でも見てるのかなって。山の神様って本当に居るんだなって思うと泣きそうになりましたよ。山を舐め過ぎた私は天罰を与えられたんだって。
大きな声を出して助けを求めてみたけれど、返って来る声はありませんでした。マイナーな山なので登山者も少ないんです。思えばその日もすれ違う人なんか居なかった事をいまさら思い出して泣きそうになりました。
私は茫然自失としたまま立ちあがろうとしました。けれどやっぱり足に激痛が走って転がっちゃったんです。それでぬかるんだ地面に仰向けになって沈み込んでたら、もう何もかも嫌になっちゃって、心底うんざりした様な心持ちで泥だらけの顔を横に背けたんです。
……そうするとね、私の足元から先の、上り傾斜になったそこの巨大な松の木に寄り添うみたいに、誰かが立ってる事に気が付いたんです。
「ええっ!?」
驚いてそんな声を上げました。見ると、道ともないこの山中の深くに、
勿論初めはこう思いましたよ。
――助かった、私はなんて運が良いのだろう。偶然山で修業をしていた山伏に遭難先で出会うとは、まだ神に見放された訳でも無いのかも知れないな、なんて。
私は山伏に縋るようにして言いました。
「助けてください、滑落してしまって。どうか山を下らせてください」
「……」
……ただ妙に思ったのは、きっちりとした山伏の正装をしたその男が不可思議にも、
「あの、そのサンダル、私の……」
「……」
男はやはり私の問い掛けに答える事無く、踵を返してサクサクと歩き始めてしまいました。待ってくださいと叫びましたがお構いなしです。
けれど私も、ここでこの男に置いて行かれてはいよいよと終わりだと言うことはわかったので、必死の形相で付いていくしか他がありませんでした。捻った右足が痛みましたし、ゴツゴツとした山肌に足の裏が刺激されて痛くて堪らなかったんですけど、木立を伝いにしてなんとか男の背中を追っていったんです。
するとすぐに、前を行く山伏の男が、私の方へと振り返って足を止めました。ホッとした私は彼に懇願する様に言いました。
「あの、待ってください、どうか……」
中腰の情けの無い姿で私が彼の袖に取り付こうとした瞬間、突然山間を吹き抜けていく突風が巻き起こって仰向けに転んでしまったんです。
「……っ…………っ!」
「はあ?」
そうするとなんと、私の情けの無い姿を見た山伏の男が、声も上げずに腹を抱えて笑っているでは無いですか。
なんて失敬な男なのでしょう、この時ばかりは私も腹を立てました。厳かな格好をしている癖に、その行動は完全にちぐはぐです。それも少し笑う位じゃなくて、声が漏れ出さないのが不思議な位に腹を捩って、体をくの字に曲げながら大笑いしているんですよ。
ムッとしましたけど、私は何も言いませんでした。その時は生きるか死ぬかの瀬戸際だと思っていましたから、他人に笑われる事もさほどは気にならなかったんです。
……ただ、やっぱり妙な男だなと、不信感は強く覚えましたよ。
また歩き出した男の背中に続いていると、こう考えました。
今私は何処にいるんだろう。もしかしたらスマホの電波が届く可能性も無いでは無い。それに腹も減った。喉も乾いて仕方がない。
ある意味その男のお陰で緊張が緩和されたかの様に、私はその時位から色々と思考する様になっていたと思います。
――リュックサックの中に非常用の水と保存食を入れっぱなしにしていたんだよな。
そんな事を考えながら、滑落した際に落とした赤いリュックサックがそこらに転がっていないかと、周囲に目を凝らしてみましたが、やはり見付かりません。溜息を一つつきながら男の方へと視線を戻していくと。彼は手に私の赤いリュックを携えて、遠慮も無しに手を突っ込みながら保存食の封を開けて食らい、喉を鳴らして水を飲んでいたのです。
ゴキュゴキュゴキュ、と水を嚥下する喉の音こちらまで聞こえてくる様でした。
そんなに大きな物を今迄何処に隠し持っていたのでしょう、と思うよりも前に私は狼狽した声を発していました。
「ああっ、ちょっと……!」
「……」
「あ、あの……私にも半分、分けて頂けないでしょうか」
生来より気の弱い私は、こんな時にもそんな風にしか言えない自分を情けなく思いました。
けれど男は私を無視して保存食を食べ続けます。深編笠の下からボリボリと保存食を咀嚼する音が私の耳に届きます。
「あの……私もお腹が空いて」
「……」
「せめて水だけでも……あっ、ああっ…………ああ」
遂に飲み干されてしまった空のペットボトルを力無く見やり、私は拳を握り込んで男を非難しました。だって本当に死活問題ですから。
「どうしてアナタはそんな事――!!」
言い掛ける途中で、また妙なつむじ風が起こって顔を背けました。そうして視線を薄闇に満たされ始めた山林へと戻していくと、そこに男がいないのです。
「は、あれ、アレ?!」
……そんな事などある筈が無いのですが、まるでそこから巨大な怪鳥が飛び去ったかの様なイメージを持ったのを覚えています。私は巨大な風圧を残して木々がたわむのを、呆気にとられながら見上げていました。
そしてそこには跡形も、私の赤いリュックさえもがない。男が何処に消えたのかと周囲を見渡してみると、見覚えのあるタオルが一つ、そこに落ちている。
それがリュックに入れっぱなしにしていた私のタオルだとすぐに気付いて拾い上げると、今度は隆起した地形の向こうに、リュックに付けていたキャラクターのキーホルダーが落ちている。そしてそのまた先にも何かしら私の物が落ちて続いている。
……これは一体どういう事なのだと混乱しましたよ。けれど今ある事実は、私がグリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」よろしく、何かに導かれているのだという事と、このまま完全に日が暮れたら、道標を追う事さえも出来なくなるという事でした。
一体あの山伏の男はどういうつもりでこんな事をするのでしょうか。
兎にも角にも私は、足の痛みに堪えながら冷たいを泥を踏んで山林を彷徨う事となったのです。
本当に男は何処に消えたのでしょう、もう彼の姿は何処にも無いのに、リュックの中の私物の道筋は遥か遠くまで続いている様でした。それも丁度、私の気付く事の出来るギリギリの距離にポツンと落ちている。だから常に集中を途切れさす事が出来なかった。疲労感だけが私に重くのしかかって来ます。
けれど次第に周囲は夜に変わっていって、さらに目を凝らさないと目印を見付けられなくなって来てしまいました。
かなり焦り始めたのですが、そんな私を見越したかの様に、次に落ちていた物はなんと、スマートフォンでした。
やったと思って電波を確認してみると、時折アンテナが一本立つことがある。ですがそんな不安定な電波ではやはり電話をする事はままなりません。
私はスマートフォンのライトを点けて、夜の山道に置かれた道筋を追い始めました。
時折スマホの確認してみると、まだまだ不安定ではあるけれど、先程よりも電波が立つ頻度が高くなって来ているのに気付きました。これは人里が近付いている事を示しているのだと、随分と励まされたものです。
冷え冷えとして、時折動物の鳴き声の起こる山の深くの闇を、私は不安に駆られながら進んでいました。辺りはすっかりと静寂に変わっています。
すると今度は、水の流れる音が闇の何処かで聞こえて来る事に気付いたのです。ライトで照らして周囲を捜索してみると、岩の積み上がった様な地形の下に沢が見えました。
水は上から下に流れていくのだから、この小川に沿って進んでいけば人里に出られる。
そう考えた私は、先程まで下を向いて歩み続けていた獣道を逸れて、一目散に岩場を降り始めたんです。
……本当に馬鹿ですよね。こんな時さえも私は、
踏み込んだ岩場が濡れていると気付く頃に、聞こえて来ました。
「あっははは」
その瞬間私は、
急速な浮遊感を覚えると同時に、世界が暗くなりました。
*
私が目を覚ましたのは、山の麓にある登山道のすぐ脇道でした。
早朝の登山者が、草っぱらの中で泥のように眠る私を心配して声を掛けてくれたのです。それで目覚めました。
私は何が起きたのかと周囲を見渡しました。足に響く痛みなんかも夢だったかの様に感じません。落とした筈の赤いリュックは手元にあって、中身もそのままです。スマホの充電なんかもほとんど減ってない。
私は一体何を体験したのか?
まるで全て夢だったかの様に思っていると、目前から私を覗き込んでいた黄色いアウターの登山者に言われました。
「
私の側に、巨大な鳥の羽が落ちているのに気付いた。
『遭難した時に沢を下ってはいけない』
夜へと傾いていく山の深くで、不安を極限まで高まらせていた私は、山の鉄則さえをも忘れたのです。
あの時見た一本の水の筋道が、真っ暗闇の中で、現世へと続く救済の道に思えてしまった。こうした抗いがたい誘惑が遭難者を沢へと誘うのかも知れないと思いました。
……それと、サンダルで登山などもっての他です。敬意を払い、相応の準備と覚悟をして神聖な山には挑むべきであるのです。
私は登山者として、山を愛する者として、忘れ難い教訓を得たのです。
……その様に、深編笠を被ったあの山伏に教えられたかの様でした。
あれは夢なんかでは無かったと私は思うのです。もしや彼は山の神様で、山を舐め切った私を懲らしめる為に現れたのでは無かったのかと、そんな風に考えてしまう。
彼は今も、私のサンダルを履いて山を駆けているのでしょうか……。
――――――
『天狗』
古くより日本の伝承に登場する魔人。地域によっては神としても扱う。
その姿は名の通りに“天を翔ける
神通力を使い、突風を起こしたりする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます