第三十六頁【幽霊】


   【幽霊】


 仕事の帰りの峠道を運転していると、日傘をさした女がいるのだと言う。


 IT関係の仕事をしているSさんの帰りはいつも黄昏時だという。

 早く帰りたいので、途中国道から逸れて県道の峠道を利用して帰るのだとか。

 あまり整備もされていない、言うなれば道と形容出来るその県道は、小高い山に分け入ってSさんの自宅に向かうまでの障害となる山を一つ飛び越える事が出来るのだそうだ。

 あまり一般的には利用されないこの峠道を通過すれば混雑にも巻き込まれず、国道と利用した場合と比較して三十分以上も早く自宅に帰る事が出来るのだが、その反面、対向車が来たら待避所までバックするかしなければすれ違う事も出来ない、車幅一台分の上級者コースである。

 Sさんがこの道を利用する様になったのは三ヶ月ほど前からだという。

 それなりに長い峠の道を二十分ほど走るのだそうだが、山深く分け入った民家もない様な山の峠道に、いつも白い日傘をさした女が立っているのだという。

 確かに――え、こんな所に人が、と初めのうちは思ったのだそうだが、山中に民家でもあるのか、とさして気にもしていなかった。

 しかし、よくよく考えてみると明らかにおかしい。

 理由は先述した通りで、ここいらに民家なんかが無い事と、こんなに細い峠道を薄闇の中一人で歩いていたら危険極まるからである。

 

 女はどう言う訳かいつもSさんに背中を見せている格好で、白い日傘を目深に被って、黒のスラックスの腰から下半分ほどをこちらに見せている。

 歩いている場所はまちまちで、いずれもこの峠道を下っていく様に歩んでいる。


 ある時、Sさんは日傘の女を過ぎ去る際に、サイドミラーからその面立ちを見てやろうと思い立った様である。

 その日もやはり日が暮れかける黄昏時の事であったが、季節が過ぎて日が短くなってきていたから、普段より一足早く西陽が山の向こうに姿を眩ませた。


 すると、正面に見ていた筈の女の姿が視界からフッと消えた。


 驚いて目を見張ったが、正面を照らすヘッドライトには鬱蒼とした山道が映るのみである。

 どう言う訳か女は、西陽が過ぎ去るのと同時にその姿を消した。

 しかしSさんは理解が出来ずに、キョロキョロと辺りを見回して周囲に白い日傘の女を探した。

 すると次の瞬間、後方に一瞬気を取られた隙に車がガードレールに突っ込んでしまった。

 何かそこだけ妙に真新しい様な白いガードレールだったのだが、地盤が悪いのか、車のフロント部分が大きく大破する程に突っ込んだ訳でも無いのに、大きくひしゃげて根元が浮き上がり、車体が突き抜けかけてしまった。

 前輪部分が宙に浮いて空転している。

 その一寸先は崖である。

 Sさんは大慌てでギアをバックに入れて、なんとか車体を道路側に持ち直したそうだ。

 もう少し強く衝突でもして意識を失っていたら、多分転落していたと思う、とSさんは当時の事を語る。

 自損事故を起こしてしまったSさんに怪我は無かった様であったが、一度車の被害状況とガードレールの損壊状況を見る為に、ハザードを点けて車を降りたそうである。幸い対向車も後続車も見られなかった。


 すると、自分が事故を起こした悲惨なガードレールのその下に、献花が添えられていたのを見た。


 成る程、ここのガードレールだけ真新しいのは、過去にここで事故があったからであるらしい。

 献花という事は人が亡くなっている。

 もの寂しいこの一本の白百合と、消えてしまったあの日傘の女とは因果関係があるのだろうか?


 どういう訳かそれから白い日傘の女は現れなくなった。

 理屈は分からないが季節が秋になって、Sさんが峠道を利用する時間が宵の口になったからかもしれない。

 夕方の幽霊なんているんだ、とそう思った。

 以前事故を起こしたカーブでは殊更に注意を払う事にしている。そしてそこには今も献花が添えられ続けている。


 そしてもうすぐ冬が過ぎ去り春になる。

 白い日傘の女は再びSさんの前に姿を現すのだろうか?

 次こそはその表情を見てやるのだとSさんは意気込んでいた。


――――――


『幽霊』


 成仏出来ない死者がこの世に姿を現したもの。この世に未練があるもの――自らの死が理解できないもの、人への念、思い残しがあるものが『幽霊』になる。

 古来より、世界各地で語り継がれる。

 また混同されがちではあるが、基本的には仏教では霊魂の存在を認めていない。それは死後速やかに転生するのだという輪廻転生の教えが由来するからである。僧の行う除霊とは元々破戒僧のする慣わしであったが、徐々に浸透し、現代では「天台宗」「日蓮宗」「山真言宗」がその存在を認める様になった。

 またキリスト教でも、人は死後罪の重さに応じて別世界(天国や地獄)へ移行するという考え方から、やはり基本的には霊魂の存在は認めていない事になる。

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