第三十五頁【死霊】


   【死霊しりょう


 死んだおばあちゃんが夢枕に立つのだと、依頼人A氏は僕の元を訪れた。

 聞くに先日祖母が亡くなって四十九日が経った辺りから、自宅のベッドで眠っていると、その枕元に立ってニコニコとA氏を見つめているらしい。その口元でボソボソと何かを言う事もあるが、声が発せられていないので聞き取れない。ちなみにA氏は東京で一人暮らしをしていて、祖母の亡くなった田舎とは遠く離れているという。

 A氏はおばあちゃんっ子であったらしく、初めの頃はおばあちゃんが会いに来てくれたのだと喜んだりもしたらしいのだが、その祖母が毎日の様に夢枕に立って消え去らない。

 その夢とも現実とも判然としない意識の中で、いつもA氏の事を見つめながらニコニコとしているのだが、日毎にその表情に変化が現れてきたらしい。


 A氏の記憶の中にある祖母は、いつも笑っていて、真面目な顔さえあまり見たことが無かった。だから目尻の所なんかには顔いっぱいに笑いジワが刻み込まれていたし、棺桶の中で眠る祖母の顔を拝んだ時も記憶のままに微笑んでいた。


 その祖母の表情が、日毎に真顔になって来て、吊り上がった口角は平坦に、そして糸の様な目でA氏を見つめ続けるので、それが言い様もなく恐ろしいのだという。


 これはおかしいと思ったA氏は線香を焚いたり墓参りをしたり、自宅のアパートで眠る前に、祖母の成仏を声に出して願ったりと色々としたそうだ。

 なんだか悪霊になってしまったみたいで気乗りしなかったらしいが、部屋の四隅に盛り塩をしたり、有名な神社で貰って来た御札を貼ったりもしたが、どれも成果は得られず、やがて夢枕に立つ祖母は恨みがましいかの様な真顔でA氏を見つめる様になったという。


 祖母が夢枕に立つ時、A氏は基本的には金縛りにあっているかの様に身動きが出来ないでいるらしいのだが、ある時声が出る事に気が付いた。

 なので恐る恐ると祖母に尋ねてみた。


「おばあちゃんはどうして私の所に来るの?」


 答えはない。精巧な人形になったかの様に押し固まったままの黒い視線は、A氏を見つめ続けている。


「おばあちゃんは死んじゃったのよ。だから成仏してね」


 それからというもの、祖母の瞼が次第に吊り上がっていき始めたという。

 それだけでは無く、口を固く食い縛ってぎりぎりと歯軋りをし始めて、その表情はまるで般若の様でさえあった。

 そして一歩一歩と、にじり寄るみたいにその立ち位置は僅かにずつA氏の表情に覆い被さり始めていった。

 大好きな祖母のイメージがA氏の中で崩壊を始めたのはこの頃からだった。

 それからというもの、A氏にとって祖母は恐怖の対象になってしまった。


 どうする事も出来ぬまま、何日間かの時間をじっくりと掛けて、祖母の鬼の様な顔がA氏の鼻先にまで肉薄した頃、消え入る様な声で確かにこう言ったらしい。


「Aちゃん、一緒に行こう」


 ハッとして視線をやると、祖母は記憶の中にあるあの柔和な笑顔で笑っていた。

 けれどA氏は必死にこう答えたという。


「いや、いや……!」


「どうしてぇ?」


「駄目よ、私はまだ死にたくないの。おばあちゃんの所へは行かない」


「寂しいの」


「それでも駄目、おばあちゃんは早く成仏しなきゃ駄目」


 強くそう断ってから、固く目を瞑っていた。

 しばらくの時間が経過して、祖母が消えたかと思って瞼を上げると同時に――


 ――ズ、と。


 足首を引かれたという。


 ぎょっとして見下ろすと、再び鬼の様相となった祖母が、A氏の足首を掴んでいた。

 そして何処かに引き摺って行こうとしている。


 A氏の体は以前金縛りにあっているかの様に動かず、またゆっくり、ゆっくりと時間を掛けて、何処かへと連れ行かれそうになっているらしい。


 ――そんな折に彼女は僕の元を訪れたのだ。


 僕がそれなりの祓い師であるという情報を何処から仕入れたのだろう。彼女は死霊に落ちぶれた祖母に連れて行かれるさなか、その直前に僕の袖を引いたのだ。

 聞いていると確かに自体は火急である。

 A氏から、朝祖母に引き摺られてベッドから足がずり落ちる様になったと聞いて、【死霊】と化した祖母の力が実体に影響を及ぼせるだけ強まっている事も窺い知れる。

 このままA氏を捨て置けば、彼女は確実にあちらへ引き摺り込まれるのだろう。


「キミは運が良いな、僕の存在を見付けられて」


「いえ、それは……祖母が」


「は?」


「まだニコニコと笑っていた頃の祖母が、声にならない口元を動かして、アナタの事を私に教えていたのです。初めはなんのことかわからなくて、ここまで辿り着くのに随分苦労しましたけれど」


 ……成る程、そういう事か。


「キミの祖母が亡くなる少し前に、身内が誰か亡くなってはいないか?」


「え……確かに、叔母が一人」


「キミの祖母もまた【死霊】に引かれたのだよ。その叔母の【死霊】にな」


 声にもならないA氏の絶句を見て取ると僕は付け加える様に言った。


「【死霊】に引かれた者は黄泉へは行けない。しかし彼らは共に逝けるのだと信じて親しい者の手を引く。しかし引かれた者は現世を彷徨うただの憐れな【死霊】と成り果て、現世に停滞したその意思を徐々にと淀ませていく。【死霊】は【死霊】を増やし、連鎖していくのだよ」


「じゃあ、祖母が私にアナタの事を教えたのは……」


「まだ僅かに意識のある――おそらくキミの言う様に祖母の微笑んでいた内に、愛しい孫を守ろうと、僕を頼る様に伝えたのだろう」


 ――【死霊】とは、徐々にとその意識を邪悪に落とされていくものなのだからな。


「おばあちゃん……っ」


 涙ぐんだA氏を無感情に見下ろしてから、私は立ち上がり、懐から札の一枚を取り出して指先に挟んだ。


「ははァ。祓ってやろう、キミの祖母からの頼みだ」


 私にとって、この程度の者を祓う事は造作もなかった。

 そして後、人としての尊厳を取り戻したA氏の祖母を思い、僕は手を合わせた。


 それからA氏は無事に日常を送っている様子である。


――――――


 『死霊しりょう


 死者の怨念がその場所や人に取り憑く現象を言う。特定の人物に憑いて苦しめる、その土地を彷徨う、親しいものを黄泉へと連れて行こうとする場合がある。

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